今週の説教

苦しむ者が救われる神の愛を知る説教

「目に見える神の愛」          マルコ1:29-39

わたしたちは目に見えるものによって一喜一憂します。これは、人によって違います。でも、わたしたちは例外なく、目に見えるものによって、一喜一憂していると思います。喜びの原因は、苦しみの原因と表裏の関係です。みなさんにとってそれはなんですか。言うのも恥ずかしいですから、心の中で答えて下さい。実は、自分が何によって一喜一憂しているかを自覚することは大切なのです。何故ならば、それはギリシア語のサルクスから生まれるからです。サルクスとは、サルのクスリみたいな言葉ですが日本語に訳されると「肉」となります。これは肉屋さんの肉ではなく、霊を持たない物質的な存在、神から切り離された存在、つまり罪の存在ということです。自分のサルクスを知ることで、自分が何から救っていただく必要があるのかがわかります。反対に、イエス様が、無原罪であったということは、イエス様がサルクスとは関係なく、霊的な存在であって、神様と深く結びついていたということですね。

そのイエス様は、サルクスから生まれる多くの問題の根源を見抜いていました。しかし、肉的な生活をしている人対して、その人を軽蔑したりすることはありませんでした。むしろ、サルクスで苦しむ人々を優しく憐れんでいたと思います。そこで、イエス様は、本当は霊の目でしか見えない神の世界を、肉的でしかないわたしたちのことを考慮されて目に見える神の愛として伝えたのです。

それが、今日の日課の中心点です。「目に見える神の愛」なのです。これは、神学的に考えれば、絶対矛盾であって、肉によって肉を滅ぼし、罪によって罪を消去したともいえるでしょう。そして、それは、受肉(サルクスを受ける)という意味、の真理に関係します。

これは、神学校で学ぶ受肉論という大切な神学です。ただ、一般的な受肉論では、神の子イエス・キリストが罪あるわたしたちと同じ体をもって生まれたということにとどまっています。

さて、わたしたちは、病気に対する備えを欠かすことができません。日本の国家予算は110兆円を超えていますが、国民が病気治療のために使う費用は45兆円にもなるそうです。病気になった時に、治療が適切で親切なお医者さんに出会うことは嬉しいものです。わたしが開拓伝道していたころに、治療費がはらえないので相談したら、自分は保険料だけでいいからと、無料にしてくれた親切なお医者さんもいました。

今日の聖書箇所は、聖書日課によると先週の続きになっています。イエス様がカファルナウムのユダヤ人会堂で悪霊に取りつかれた男を癒した出来事がありました。そのあとで、イエス様と弟子たちは、近くにあるシモン・ペトロの家に行きました。わたしも行ったことがありますが、この遺跡は現在も残されています。そこでは、弟子のペトロの奥さんの母親が高熱を出して苦しんでいました。イエス様が家の中に入ると、そこにいた人々が助けを求めました。高熱ということはマラリアだったかもしれません。ちなみに、ガリラヤ湖の北部は湿地帯でマラリア蚊の生息地として知られていたそうです。

イエス様は、人々の願いを聞いてペトロの姑の手をとって起こしてあげました。おそらく、イエス様の差し出した手には神さまの愛が感じられたと思います。すると、たちまち熱はさがりました。彼女は元気になって、イエス様の一行をもてなすことができたのです。この「もてなした」という表現に用いられているギリシア語は「ディアコネー」であり、キリスト教的奉仕の意味です。日本語の「おもてなし」も「ディアコネー」ですね。

さて、きっとこの癒しのうわさが広まったのでしょう、夜になったのに、その地域の人々が大勢の病人をつれてきて、ペトロの家を取り囲んだのです。原語では、その町の人全員が集まったと書いてあります。次から次へと「わたしたちの病気も直してください」「わたしもお願いします」と求めてきたのです。夜は遅いのにイエス様はそれを嫌がらず一人一人に接し、彼らの願いをかなえてあげました。きっと、笑顔がもどり喜びの声が溢れたでしょう。イエス様も神の愛による「おもてなし」の人でした。

わたしたちは、キリスト教の伝道を、人を集めることを中心に考えてしまう傾向があります。それも悪くはないのですが、イエス様自身の伝道には多くの奇跡と癒しがあったことを聖書は証しています。初代の弟子たちの記録である使徒言行録をみても「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」(使徒言行録2:43)、と書いてあります。弟子たちもイエス様と同じように神の愛をあらわし、苦しんでいる人々に驚くような奇跡と癒しの業を行ったことがわかります。それは長い歴史の中でも継承されてきており、菊川の福祉施設であるウオーターバレーが行っているのも、同じ、愛による援助だと思います。

さて、大勢の人々が集まってきたときに、カファルナウムのペトロの家は夜間診療所のようになりました。その診療所で、無料で診察してくれる、愛に満ちた、優しいお医者さんがイエス様でした。

悪霊はイエス様が、単なる医者ではなく、救い主だと知っていたので、悪霊にとりつかれた人を送って愛の働きを阻止しようとしました。神の働きが顕著な時には悪霊も活発ですので注意が必要です。この注意とは、防御ではなく、自分の弱さを神に告げることです。イエス様は神の側にいましたから悪霊の働き禁じ「悪霊にものをいうことをゆるさなかった」と書かれています。何故ならば、イエス様が実際は、病気の癒しを最優先したのではなく、癒しを通して、人間を根本的に救う神の愛の福音を伝えることをメインにしていたからです。

本当は、肉の癒しより、魂の霊的ないやしが大切です。何故かというと、病気は目に見える重荷ですが、人間には目に見えないもっと大きな罪という重荷があるからです。聖書に、「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)、とあるように、死に至る病気が罪です。

キリスト教作家であったキルケゴールは「死に至る病」という本を書きました。そして、「死に至る病」とは絶望することだと言ったのです。

優しい先生に助けられて病気が治ることも嬉しいし、悪霊を追い払って(節分の鬼は外のように)いただくのも喜びですが、それ以上に、最大の病気であり、死の原因となる罪、という病を治していただくことが一番大きな喜びです。この罪からの癒し、つまり「死に至る病」には、十字架の贖いが必要だと聖書には書いてあります。「わたしたちの古い自分がキリストとともに十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は罪から解放されています。」(ローマ6章6節以下)十字架がわたしたちの救いになるのは、古い自分であるサルクス(肉)が滅ぼされるからです。

わたしたちは、やがて例外なく死にます。仏教では、諸行無常といいます。聖書では、人が死ぬのは死に至る罪という大病にかかっているからだと教えています。この死に至る罪の病気の症状には、熱や痛みはありません。普通の病気には体温計ですね。皆さんはおそらく、平熱でしょう。しかし、罪の病気を計測する体温計で測れば、わたしたち全員40度以上になってしまうでしょう。

聖書によれば、この病気には症状もあります。それは「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意、妬み、殺意、不和、欺き、邪念、陰口、高慢、大言壮語、無知、不誠実、無常、無慈悲」(ローマ1:29)などです。さらにそれを認めようとしないで自分は病気ではない考える偽善が最悪で、最も深い罪です。わたしも学生時代に、他人の問題ばかり考えている偽善者でしたが、聖書を通して自分の罪を知り、イエス様を信じることによって癒されました。

マラリアという病気はマラ(悪)という意味のラテン語と、アリア(空気)というラテン語の合成語だと言われています。つまり悪い空気です。そのように感染が広がるからでしょう。しかし、治療法はあります。罪の病の場合には、イエス様の愛を信じ、十字架の贖いを信じるときに罪の問題が解決します。信じる者は救われるのです。

あるアメリカの教会で牧師さんが「わたしたちはキリストの救いを伝えることができます。だれにでもできることです。」と言いました。それを聞いた一人のお母さんは考えました。「そんなこといっても、わたしは貧乏で子供も多いので人を導く時間はない。」牧師さんは続けました。「わざわざ伝道にでかけなくてもいいのです。家に来る人に伝えてください。」お母さんは考えてみて、牛乳配達の人に伝えようと思いました。ですから、いつもより早く起きて牛乳配達の人が来るのを待っていました。ドキドキしましたが祈りながら勇気を出して言いました。「牛乳屋さん、あなたは心に本当の安心がありますか。心配や悩みはありませんか。」すると、牛乳配達の人はいいました「奥さん、わたしには最近とても苦しいことがあって、誰かに相談したかったのです。心に平安をほしいと思っていたのです。」それから、その人は熱心に信仰のことを聞いて信者になりました。このようにしてこの貧しいお母さんは、11人を信仰に導いたそうです。わたしたちも「目に見える神の愛」を実践することはできます。わたしたちも信仰によって、その癒しの働きができることを信じ、古い自分を十字架につける贖いのしるしである聖餐式を受けましょう。

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