キリスト教神学の究極点、神の選びについての説教
「神の選びと使命」 マルコ1:9-11
イザヤ書42章1節~7節は新約聖書に引用されています。有名な「傷ついた葦を折らない」、という部分はマタイ福音書12:18以下にあります。5節の、「人々に息を与える」は使徒言行録17:25に見られます。また、6節の「諸国の光」の部分は使徒言行録13:47に異邦人伝道の箇所として引用されています。7節の「闇に住む人の救い」はルカ福音書4:18にあるイエス様のガリラヤ伝道の最初の説教の箇所です。これを見ると、新約聖書とは旧約聖書の解説書でもあることがわかりますね。
そして、この解説における意図は、新約聖書の出来事を旧約聖書の預言の成就としてとらえる必要があるということです。聖書を単なる道徳の書として考えている人には、理解しにくいことです。何故なら、聖書は人間の倫理ではなく、神の歴史の成就を中心課題としてみているからです。ですから、神さまは、かならずしるしを与え、それを実現される存在だと信じるときに、わたしたちの信仰心は深まります。つまり、人間ではなく、神の業が中心なのだと覚えておきましょう。
それは、わたしたちが人生の荒波にもまれて戸惑ったり、困ったりすることがないようにするためだと思います。暗闇に一路を照らす灯台の光のような、神さまのご配慮です。また、わたしたちは旧約と新約の間に生きているのではなく、新約聖書と現代の間に生きているわけですが、わたしたちの時代にも、勿論、神さまのあたえた預言があります。預言というと、天気予報のように将来の予告と考える人もいるので、注意が必要ですが、預言とは予測ではなく天地創造の神による方向づけだと理解したらいいでしょう。預言者はヘブライ語でナビーですが、それは「呼ばれた者」とか、ナビゲーションと同じ道案内を示しています。今日から受難節に入る聖書個所はイエス様の洗礼日ですが、そこには神からの呼びかけとか、道案内が示されています。
さて、イエス様の洗礼ですが、われわれ西方教会(ローマ)の伝統に立つものには、特別な重要性を示さないもので、せいぜい洗礼の意義を考える日でしかありません。しかし、2世紀以来、東方教会、コンスタンチノープルかを中心としたオーソドックスといわれる教会では、クリスマスやイースターと並ぶ大祝祭日としてイエス様の洗礼を大切にしてきました。考えてみれば教会のしるしはみ言葉と聖礼典です。み言葉の具現であるキリストの誕生がクリスマス、聖餐式という聖礼典の象徴がイースターにあらわされる贖罪と復活、洗礼という聖礼典は主の洗礼日に象徴されています。顕現節の最後にあたる主の洗礼日とは、明らかにするという意味です。そしてそれは、信徒の中に洗礼を通してキリストの誕生が明らかになる、いわば信徒の心の中のクリスマスを象徴しているのでしょう。
すこし横道にそれますが、洗礼はクリスチャン生活にとても重要なことです。ルターは時々欝な気持ちになりました。そんな時にはきまって、悪魔の誘惑があり、「お前は救われていない罪人だ」と告げられたのです。そのたびにルターは、確かに自分は救われ難い罪人であるだろう、だからこそ洗礼を与えられたのだ、と反論したそうです。これが理解できないクリスチャンは、自分の「良心」のゆえに、自分を責め、自滅していくことになります。ただ、正直に言って、わたしたちは罪深いからこそ、救われたのではないでしょうか。そんな迷いがあるときに、自分が自分の生活態度をどう考えようと、救いの洗礼を受けたことは、厳然たる事実だ、だからわたしは救われている、というふうに考えるべきなのです。ルターも、そう述べています。自分の内部的な善や道徳に頼るのではなく、外から与えられた聖礼典である、洗礼の事実にしがみつく必要があるのです。ですから、キリスト教は道徳心の信仰ではなく、聖礼典に依拠する信仰なのです。これを理解していないクリスチャンの人もかなり多くいます。そういう人は、普段は平然としていますが、他人に批判されたり、自分が否定されたり、悲惨な苦境に置かれたりすると、信仰が壊滅します。もともと自分信仰だったからです。しかし、聖礼典にのみ信頼を置く信仰は、どんなに悪魔が激しく攻撃しても崩れません。悪魔にもし自覚があれば、聖礼典信仰を持っている者を攻撃することは、聖なる神ご自身を攻撃していることだと気付くでしょう。わたしがこれを書いているのは、これを読んでいる方々も、しっかり聖礼典信仰に立っていただきたいからです。
さてマルコ福音者では、イエス様の洗礼が、その後のすべての記事の序文のようになっています。それは誘惑の記事と並行しますが、イエス様が与えられた神の承認を示す重要な部分を表しています。そして、この箇所は、天が裂け鳩が降ったという視覚的情景と、天からの声という音の部分から成り立っています。天が裂けたのは、マルコ15:38のところで、イエス様が十字架上で息途絶えたときに神殿の垂れ幕が裂けたのと同じ表現です。「裂けた」という意味は、これまでずっと長い間隠されてきたものが、露わにされ、天と地が直結したという意味です。顕現節の顕現という意味はこれですね。善も悪も明らかになります。この明らかにする霊が鳩として描かれています。上から下に降る動きの中に神の救いが明らかです。人間の思考や思想が救うのではありません。悟りでもありません。聖書は、上から下への神の霊の降臨として救いが示されています。それはやがてすべての信仰者に、恵みとして、上から下への霊の降臨があることを預言しています。救いは、自分を出発点にはしないのだということを、しっかり覚えておきましょう。
次に、天からの声です。イエス様が神の愛する子であるというのは、マルコ福音書のメインテーマです。イエス・キリストという救い主が、神の愛子、御子であることが顕現されたら福音書の役割はそれで十分達成されているということです。わかりますか。聖書の全部の目的がここに凝縮されているのです。そうなんだ、イエス様は本当に神の子イエス・キリストなんだ、だから救うことができるのだと信じるときに救われるのです。
このイエス様の洗礼の記事は、ベツレヘムで生まれナザレで育ち、成人になって伝道を始めたイエス様が、誰だったのかを示しています。アイデンティティーとも言っていいでしょう。洗礼のヨハネは、旧約時代からの預言者の系譜を引き継いだ人でした。イスラム教ではイエス様も預言者の系譜に入れます。でも、キリスト教では、イエス様は神の愛する子であるとします。同時に神殿の垂れ幕が裂けたように、愛する子が贖罪の犠牲となる小羊だということが示されています。まさにここで洗礼と聖餐式の十字架の出来事が結びついています。祝福と苦難が一緒です。与えられることと奪われることが同時です。こうした二律背反や矛盾のなかに神の真理が顕現されます。それは、端的に言えば、人間の論理の糸がプッツリと切れるからではないでしょうか。不可知の世界です。
パウロは、信者の洗礼を、イエス様の洗礼に重ねあわせて見ていました。「あなたがたはイエス・キリストに結ばれて神の子なのです。」(ガラテヤ3:26)また同時にパウロは、洗礼は犠牲の死の象徴だと説きます。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られた」(ローマ6:4)やはり与えられることと奪われることが同時です。聖書はここで、わたしたちのアイデンティティー、わたしたちが、聖書から見た場合、いったい誰なのかを顕現します。その聖書的な見解に従えば、わたしたちは神の最高の高さを受けついだものであり、最もみじめな死を遂げるべきものであり、けれども、必ず復活する者であることが明記されているのです。キリスト教徒は、長い歴史の中で、迫害を受けてきましたが、その多くが死を恐れなかったのは、受難と復活という、神の与えたパッケージを信じていたからです。実は、前記の聖礼典信仰を与えられた者は、既に神に選ばれた者なのです。だから信じているのです。自分が選んだものではないのです。「不合理故に信ずる」という信仰はもはや人間理解に起点を置く信仰ではありません。そして、人間的ではないからこそ、神の選びという土台に建てられた信仰なのです。
この神の選びは、聖書の中心思想をなすものです。キリスト教の救いは、行いや道徳によりません。神の選びが中心です。初代教会のクリスチャンたちも、「神に選ばれた者たち」という意識をもっていました。教会員ではなく、「神に選ばれた者たち」という名称だったのです。ともすれば、これは選民意識となりやすいものです。しかし、パウロはそうではなく、「神に選ばれた者たち」は神を愛する者だとしています。神に愛されているから、神を愛しているのです。神との愛の交流を与えられているものが選ばれた者です。この選びは予定説の流れに置かれています。これもまた、宣教の原点です。第一テサロニケ1:4(374)以下をみましょう。神に認められることは、イエス様と同じように福音を任されていることです。人ではなく神の喜びが中心です。そこには迫害を避けることはできないと告げられています。ルターは書いています。ローマ教皇が世界と一緒になって自分を悪人として裁き、迫害しても、一人の人が尊い真理をとらえて賛美するならば、苦しみは自分の苦にはならない。現代の世界では、悪徳支配者や政治集団が反対者を毒殺したり拷問したりしても、神の裁きを逃れることはできないのです。マタイ24:9に預言されているように「イエス様の名のためにすべての人に憎まれる」ように選ばれていることは、神のみ言葉の特質であるというのです。オオカミやクマが迫害するのではなく、人間が迫害するのです。ルターは言います「キリストがおられるところには、裏切りのユダがいるし、権威者のピラトがいるし、偽りのヘロデや宗教権威者のアンナスがいて、十字架がある。」それ以外ではありえない。ルターはですから迫害者のために祈ります。自分たちは何の害も受けないが、迫害する者は、荒れ狂えば荒れ狂うほど自分をダメにするからです。逆らう者にも優しくすることが大切です。なぜなら、ルターによれば、世界全体が、「わたしたちを殺したり、あらゆる災いを及ぼしても、わたしたちは生きるからです」これが神の子のしるしです。また、「神に選ばれた者たち」のしるしです。それこそが、わたしたちの救いの喜びです。わたしたちは生きる。「あなたはわたしの愛する子である」これは洗礼を受けた者に向けられた無限の慰めの言葉であります。この世にほかの慰めを求めてはいけないわけです。選ばれた者としての自覚をもって、神が与えた機会をとらえ、神の愛を伝えるという使命を大切にしましょう。