閑話休題

制度の死の時代

アメリカの大統領選挙に関する識者の意見をインターネットで聞きました。そこで、感じたのは、アメリカでは日本より早く、さまざまな社会制度の崩壊が始まっているということです。政府や選挙という制度への懐疑を国民に広めたのはトランプ元大統領でした。今後の選挙でも、アメリカ人は選挙結果を信じないで暴動が起こるだろうと予測されています。司法・行政・立法という民主主義の基本制度も壊れつつあります。日本の政治の裏金問題もそうですが、政治不信ということは、政治制度の崩壊の糸口となります。一方、アメリカでは教育制度に関する不信も高まっているようです。さらに、アメリカはキリスト教信仰によって建国された国なのですが、その根幹となる教会制度も大打撃を受けているそうです。人々は、ヨーロッパがそうだったように、もはや教会にはいかなくなっているそうです。こうした社会制度の滅亡は、極端な個人主義を生み出しています。丁度、家庭という制度の中で、健全な子供が育つように、原罪を持つ人間は神の定めた制度によって、正しい道を歩むように導かれたわけです。日本の仏教ならば、そこには檀家制度がありました。その中で、慈愛の教えとか社会規律を学び、実践してきたわけです。しかし、それも過去のものとなりました。原罪を持つ人間に対するブレーキは機能しなくなり、欲望が窃盗になり、憎しみが殺人になっても、誰も驚かない時代になりました。制度の中の責任者は、私利私欲に走り、自分の行動が引き起こす甚大なダメージを他人事のように考えます。そして、悪いことに、キリスト教会は、50年くらい前と同じメッセージを繰り返すだけで、この制度の危機の時代に対する希望を提供できていません。諸制度の衰退を栄養分にして資本主義社会がますます横暴になり、多くの困窮者が続出しても、有名運動選手が日本の各小学校にプレゼントを贈ったことが美談として伝えられるほうに目が向いて、現実が無視されています。ただ、こうした制度の死の時代は、歴史的にみるとどうなのでしょうか。わたしには、終わりの始まりのように感じられ、制度とは関係ない個人主義的なデジタル社会の到来が始まっているように思います。そして、聖書をみますと、このように書いてあります。「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」(ヨハネ黙示録3章17節)あたかも、家庭を捨てて放浪の旅に出て、全財産を使い尽くして困窮した放蕩息子のように、現在の人類は神の定めた制度を捨て、「自由の旅」に出ようとしているのです。これは、危険なことです。しかし、その背後に、創造主である神の忍耐に満ちた眼差しがあることは確かでしょう。放蕩息子を待ち続けた愛情深い父親のように、神はわたしたちが神のたてた家庭に戻ってくるのを待っていると思います。ただ、いま教会で必要なのは、50年前と同じようなメッセージだけではなく、「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない」(ヨハネ黙示録10章11節)ということではないでしょうか。旧制度の死の時代は、新しい秩序の始まりの時なのか、世の終わりの時なのか、そのどちらかです。みなさんはどう思いますか。

 

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