苦しみを越えて生きることの意味を学ぶ説教
「光を輝かせていますか」 ヨハネ2:13-22
3月11日は東関東震災からちょうど13年目にあたります。9月6日の広島、9日の長崎の原爆と同じように、3月11日は日本国民にとって忘れられない日になりました。死者・行方不明者は2万2千人以上です。また、地震によって起きた原発事故っで、まだ多くの方々が苦しんでおられます。以前に、わたしの母の友人の家で火事がありました。家人は一階にいて、二階から出火して上が全焼してしまったそうです。原因は、コンセントのまわりに細かい綿ほこりが付着していて、そこから発火したということでした。こまめに掃除しておいたら防げた家事でした。震災や津波も自然現象であり避けることはできませんが、家財全部を捨てて、直ぐに逃げた人の多くは助かっています。旧約聖書エゼキエル書3章16節以下には、警告の大切さが説かれています。「人の子よ、あなたを家の見張りとする。わたしに代わって警告しなければならない。人が悪の道を離れて命を得るように諭さなければならない。」このあなたとは、誰のことをのべているのでしょうか。単に、被害の被災者だけのことではないと思います。
有名なモーセの十戒の後半の部分には、「神が来られたのは、試すためであり、神への畏れをおくためである」と書かれています。聖書の思想は一貫しています。申命記5:33にも、「あなたは主が命じた道をひたすら歩みなさい。そうすればあなたは命と幸いを得る」と書かれています。つまり、神が望んでいることは、わたしたちを災いから救い、命と幸いを与えることだと、わたしは確信しています。使徒書のローマ書にも「信仰は聞くことによって始まる」とあります。ですから、目に見えない危険が迫っているこの世でも、命の道、生きる道を見つけるためには、まず御言葉を聞くことから始まるわけです。
では、福音書をみてみましょう。ヨハネ福音書2:13以下です。この個所で語られている過ぎ越しというのは、古代イスラエルの時代にエジプトで奴隷化されたユダヤ人が神の特別な助けを得て、エジプトを脱出して逃げ、自由を得た故事を祝うお祭りです。その時からすでに3千2百年以上経過しています。しかし、ユダヤ人たちはこの出来事を毎年忘れずにお祝いしてきました。過去の出来事を風化させなかったわけです。
それが、ご存知のようにキリスト教の復活祭の起源となったものです。古代イスラエルでは、エジプトで苦しんだ政治的奴隷状態からの解放を祝ったのですが、イエス様の十字架のあとの復活を祝う復活祭は、人間の霊的解放を祝うものとなりました。おそらく、小国ウクライナが大国ロシアの侵略に打ち勝つ日が来たとしたら、戦勝記念日として長く祝われることでしょう。
さて、イエス様の思想は、旧約時代の聖書の思想と全く同じであり、人類に神からの命と幸いをあたえることでした。そのためには、「命と幸い」以外のものを取り除かなければなりません。病気の場合も同じです。悪性の腫瘍が見つかったら、外科医はそれを手術して取りのぞかねば、患者は生きることができません。神は、人間に痛みを与えることがあるかもしれません。でも、それはわたしたちが生きるためではないでしょうか。今は、ロシアの侵略を日本の大部分の人びとが悪とみなしていますが、日本が中国を侵略していた時は、それを批判した人は少数でした。他国の主権を犯した日本の悪も、痛みを伴って取り除かれたのです。
神はイエス様に十字架という苦しみをあたえました。それは、しかし、人類に永遠の命を与えるためでした。それは第一ヨハネ5:13にあるように「神の子イエスを信じる者に、永遠の命を得ていることを悟らせる」ためでした。生きるためには、命に反するもの(原罪)が取り除かれる必要があります。
イエス様は、神聖な神殿をスーパーマーケットに変えていた羊や牛、鳩など、供え物の為に売られていた商品を排除しました。神殿が神の場所であり、命を与える場所であることが忘れられ、誰がどんなに高価な供え物をしたとか、どんなに立派だとかに意識が向けられていたからです。これも、原罪の指向性によるものです。旧約聖書にも本当の供え物とは、「愛であっていけにえではない、神を知ることであって、焼き尽くす捧げものではない」(ホセア6:6)と書いてあります。
イエス様が神殿の境内の供物売店や両替に対して否定的だったのは、礼拝者の思いが利益や外観や、人間の敬虔さばかりを追求していて、神への愛が欠けていたからでしょう。現代でも同じです。礼拝に来ている者にも、神への愛、心からの感謝、困窮する隣人への愛が欠け、心静かに個人主義的な平安を楽しむことを第一にしている人間がいないわけでもありません。あるいは、献金だけが供え物だと思っている人もいるでしょう。違います。もし、10円しか献金できなくても、神への愛と隣人への愛があったら、それは素晴らしい供え物です。困っている人を助け、悲しむ人を慰め、弱っいる人を補助することも立派な供え物です。これ以外にはありません。こうした供え物が実は、命と幸いのみちであって、その他の不必要なもの、悪性腫瘍のように害悪を及ぼ原罪は、神さまによって取り除いていただかなくてはなりません。わたしたちは、何かを失ったときに、残念に思いますが、もしかしたらそれは、わたしたちを神の愛において成長させるために、取り除かれたのかもしれません。あの大震災の津波の時に、夫と死に別れた妻の証言の中で、夫が黒い濁流に流されていくときに、何度も大声で「ひで子~!」と初めて自分の名前を読んでくれたのが、悲しい時だったけれど嬉しかったと語られていました。物的存在としての夫は失われたのですが、愛は残ったわけです。
イエス様の改革は神殿の供え物だけではありませんでした。神殿そのものが壊れてなくなるもの、つまり、神のものではなく、人の手で作ったものに過ぎないことを明らかにしたのです。しかし、当時の最高の宗教権威ですらこのことが理解できず、「神殿建築には46年もかかったのに、どうして3日で立て直すことができるのか」と質問したのです。もともと、神殿というものはイスラエルには存在せず、幕屋と呼ばれるテントが礼拝場所でした。それが、ソロモン王のときに第一神殿が建設されたのですが、実際に建設を準備したのは、ダビデ王でした。当時の様子は、旧約聖書歴代誌上29:1にダビデの言葉として「この宮は人の為ではなく神なる主のものである」と書いてあります。そして、ダビデは自分個人が財産を金3千キカル寄贈した、家来たちよ、進んで神のために寄贈するものはいないか、そう訴えたのです。すると、部族長や、長官や、軍の隊長などが次々に寄贈し、その総額はダビデ王の額を上回り、なんと金5千キカルに達したと書かれています。一キカルは34.2キロですから、これは171000キロ、171トンに及ぶ膨大な額であったのです。現代の金額にすると、1兆7千億円です。ダビデ王の分を加えると2兆7千億円でした。そのほかに、宝石、銀、当時は貴重だった鉄も3千トン寄付されていますので、おそらく何兆円にも及ぶ神殿工事だったことがわかります。それは山を半分削って、縦500メートル、横250メートルに及高さ30メートルくらいの平らな基礎を作りその上に巨大な神殿を建てたのです。ですから、イエス様が神殿を三日で立て直すと言った時に誰もそれを信じなかったでしょう。ですが、本当はイエス様が言っているのは、神殿を建てたときのダビデ王の主旨のことです。「この宮は人の為ではなく神なる主のものである」、つまり神への限りない愛の献身なのです。そのためには、他の不純物は一切不必要です。牛もいらない。鳩もいらない。金もいらない。本当の供え物とは、「愛であっていけにえではない、神を知ることであって、焼き尽くす捧げものではない」(ホセア6:6)
ここにしか、本当の命と平和、命と幸いはないと、聖書は警告しています。あなたは生きなければいけない。あなたの人生は幸いなものでなければいけない。だから、発火しやすい埃のような不必要なもの、つまり原罪をイエス様に取り除いていただく必要があるのです。「キリストは教会を清めて聖なるものとしてくださる」(エフェソ5:26)と約束されています。現代の教会が衰退しているのも、清めの機能が無視され、有力な人間の意見だけが尊重されているからではないでしょうか。
そんな現状があったとしても、わたしたちが人を見ることをやめ、十字架を見上げ、十字架の清めを信るときに、わたしたちも命と幸いに既に入れられていること実感するでしょう。十字架の救いは、「これから」ではなく、「もう、すでに」という点を理解することが大切です。「神が清くしたものを清くないと言ってはならない」(使徒11:9)とあります。それがわたしたちの確信でなければいけないのです。
受難節に入った今、イエス様が、わたしたちの心の中の神殿も信仰によってすでに清めてくださっていることを信じたいものです。この記事を偶然に読んでくださっている方も、まだ教会には行ったことがない人っでも、十字架の救いを信じることによって救われます。既に洗礼を受けている方でも、十字架の救いを新しく信じることによって、清められます。それが聖書の預言です。
確かに、震災や病気、個人的な困難や悩み、そうした人生の十字架は耐え難い大きな試練です。しかし、その十字架の時は、同時に、わたしたちの原罪にまみれた雑多な心が清められ、ピュアな神への愛に励まされる救いの時でもあるのです。神は愛なのですから、どんな試練も超える力が与えられているはずです。ルカ福音書に語られている放蕩息子の物語でも、原罪によって家でした息子は、試練を経た後、親の愛のもとに立ち返りました。ですから、自分の人生は、実は自分のためだけにあるのではなく神の為、つまり愛のため、命を育むため、闇に光を輝かせるためにあることを自覚しましょう。