菊川ルーテル教会での伝道説教、2024年5月5日
「選ばれ愛され実を結ぶ」 ヨハネ15:9-17
先週の聖書日課で、イエス様はぶどうの木の喩えを語り、わたしたちが救い主にしっかり結びついている必要を教えました。その後にある今日の日課では、ブドウの木の教えの目的は、イエス様がもっていた喜びが弟子たちの心の中に伝達されるためだとします。喜びの移動です。移動手段は信仰の枝です。ブドウの木の枝が樹液を運ぶパイプだとしたら、そこが破れていたり途中で切れていたら、喜びの液体は流れてきませんね。流れてこないと、枝の先においしい実はできません。洗礼を受けても、なかなか、実を結ぶまでにはいかないのはこのためです。
実を結ぶことが大切です。前に教えた、0248915という神様の富を引き出す暗証番号があります。これを知っていることが霊的な実を結ぶことです。
この喜びは、新約聖書が書かれているギリシア語ではカラという言葉が使われています。カラは、カリスマということばと関係しています。ですからカラは、恩寵的な無償の恵みの状態を受けている、カリスマ的な超能力をあらわしています。ブドウの枝でいえば、枝を通して幹につながっている状態です。あるいは、パイプを通して、神様の無尽蔵な栄養と財産を受け継いでいる状態のことです。皆さんは、現在、そういう状態ですか。ます。もしそうでなくても、カリスマを受けた状態になりたいと思いませんか。思う人は、心の中でアーメンと唱えて下さい。
もう、パイプはつながりました。皆さんの心のパイプも神様の樹液を運んでくるでしょう。これには、深い神学が隠されています。この枝とか、パイプに関しては、皆さんが選んだのではなく、今日この聖書の箇所を聞いた時点で、皆さんが選ばれたからです。聖書の神学には色々な側面がありますが、その中で重要なものは、神の「選び」です。神様は4千年近く前にアブラハムを選びました。3千年近く前にモーセを選びました。2千年前にはイエス・キリストを選びました。そのことは、今日の聖書個所の16節に書かれています。わたしたちが神を選んだのではなく、神様がわたしたちを選んだのです。だから、絶対的な信仰なのです。
前にも話したかと思いますが、私は今から50年前の4月22日に、東京の本郷にある本郷ルーテル教会で洗礼を受けました。そのころ自分は、大学も休学して事務所で働いており、人生の進むべき方向に悩んでいました。友達の勧めで、教会の祈祷会にも出ていましたが、このまま洗礼を受けてもそれが続くのかどうか悩んでいました。それというのも、自分は非常に移り気で、一つのことをやっても、それが続いたことがなかったからです。祈祷会に出るには地下鉄の本郷三丁目の駅を出てから15分ぐらい歩かなければなりません。勿論、仕事を終わってから行くのですから夕方です。そして、この通りは、レンガの塀が続く東京大学の本郷キャンパスに沿った道です。そして、暗くなった道を教会に向かって歩きながら、洗礼はどうしようかと悩んでいたのです。すると、実は暗いのに、目の前の歩道が明るくなったような気がしました。そして、わかりました。そうなんだ、これまでは、自分で好きなことを決めて、飽きてきたり、根気が続かなくてやめて来たんだ。でも、もしクリスチャンになることが神が決めたことならば、変わることはないだろう。後で思うと、この時に、深い神学である、選びの神学を実感していたわけです。洗礼を受けて教会に通ってしばらくたってから、聖書を読んでいて、今日の私にとって記念的な聖書個所をよんで、驚きました。あの冬の夕方の暗い道で閃いた言葉が、そのまま書かれていたからです。自分が選んだのではない、神が、選んだのだ。
枝が幹につながったのですね。パウロは「野生のオリーブであるあなたが、接木され、根から豊かな養分を受け取る」(ローマ11:17以下)と言っています。わたしも野生の枝でした。皆さんもユダヤ人ではないですから、聖書の表現では野生のオリーブです。これが純正のオリーブであるイエス様に接ぎ木されることが、喜びを受け続ける大切な点です。洗礼を受けても、教会奉仕をしても、喜びを受け続けていかなければやがて枯れてしまします。信仰のバーンアウト現象です。日本では、洗礼を受ける人や聖書に興味を持つ人がかなり多いのです。毎年、何万部もの聖書が販売されているのがその証拠です。でも、教会に来てもバーンアウトするか枯れてしまいます。神の選びの神学を理解していないからです。神の選びとは、自分や周囲の人にフォーカスするのではなく、絶対愛をもってわたしたちを愛してくださる神にフォーカスすることです。神に選ばれた人たちは皆そうです。アブラハムのそうです。モーセもそうです。ダビデもそうです。預言者たちもそうです。イエス・キリストもそうです。パウロもそうです。聖霊を受けた弟子たちもそうでした。そして、ルーテル教会の基礎をつくったルターもそうでした。彼らは皆、神にフォーカスしました。
閑話休題。ここで、神という幹に結ばれている接ぎ木について考えてみましょう。ある時、テレビを見ていて、スイカの接木の様子を見ました。みなさん、接ぎ木をしたことはありますか。わたしは、サボテンの接ぎ木はしたことはります。さて、スイカは種が多いですからいくらでも蒔けばたくさん収穫できそうです。一個のスイカに少なくとも数百個の種があるでしょう。しかし、普通に蒔いてもは育ちません。ですから、似た種類の強い植物、たとえは、カンピョウとかカボチャなどの新芽に接木します。その方法はなかなか教えてくれませんし企業秘密だそうです。スイカの芽をカンピョウの芽に接ぐだけで一本350円にもなるのです。100本で3万5千円ですから、一個分のスイカから、10万円以上の接ぎ木ができます。ところが業者になると5万本も接いでいます。1750万円分っですね。その方法は、台木が双葉を出した時に、新しい芽を取り除き、そこに穴を開けます。スイカの苗は、根を切り、両面ではなく片方を切って、切断面を下にして穴に差し込みます。すると、台木との成長点が接続するのです。上面は皮ですから乾きません。接ぎ木されたスイカの芽は幹であるカンピョウの幹からたくさん栄養分を与えられて、大きく成長します。これが枝となることです。
さて、次にイエス様は愛の命令を与えています。共同訳聖書では「掟」と訳されていますが、これは冷たく固定的に聞こえます。本来の意味は、軍隊の司令官が部下に下す「指令」という積極的な意味です。信仰の中心は静止ではなく生きた動きです。0248915という暗証番号のゴーの部分ですね。
ですから、愛することは決まりではなく、今ここであなたは「汝の敵を愛せよ」という教え通りに生きなさい、そうすれば恩寵的な無償の恵みの状態が増大しますよ、という意味なのです。特にこの言葉は「わたしの指令」となっていますので、イエス様じきじきの命令なのです。それは「イエス・キリストの言葉を聞いて行うこと」(マタイ7:24)なのです。この例は多いです。ローマ軍の百人隊長に出会った時にも、イエス様は、指示通り行動すること、「行けといえば行き、来いと言えば来る」(ルカ7:8以下参照)という彼の態度に感激し「イスラエルの中でもこれほどの信仰を見たことがない」とおっしゃったのです。これも、ゴーの真理ですね。
実を結ぶことは、接ぎ木された自分がキリストから離れないで行いを実現することです。自分の考えでなく、神からの指令に忠実に従うことです。これも、自分の意志ではなく、神の意志にフォーカスすることですね。あなたが選んだのではない、わたしが選んだのだという選びの神学です。
そして、この選択はわたしたちのものではありません。イエス様が選んだのです。接木したのは神です。そして行って愛の実を結ぶようにゴーと「任命」したのです。その証拠に、横田先生から、菊川にゴーという要請を受けてわたしも神の愛を伝えるために来ているわけです。皆さんも、聖書の言葉を聞いて満足するだけでなく、ゴーして実を結びなさいと命じられているわけです。その際に、イエス様はわたしたちの弱さをよく知っていました。そこで、イエス様はすべての働きを完成して下さり、イエス様の体なる教会に結びつく者に、愛の実を結ばせて下さるのです。ルターは普通の人が、律法ではなく行いの実をむすぶのはどうしてかという問題を、信仰を通して非常にわかりやすく説いています。もし一人の人が、他の人が自分に愛と好意を寄せていると感じ、これを固く信じるならば、どんな態度をとるべきか、何をすべきか、何を慎むべきか、何を語るべきか、何を語ってはいけないか、それを誰かから教えてもらう必要があるだろうか。そう考えたのです。神の絶対愛を知ることによって自然に愛の実は成長します。選ばれ愛され実を結ぶからです。
菊川ルーテル教会は静岡県菊川市本所1200にあります。電話0537-35-3871 JR菊川駅の南口から徒歩10分くらいです。お近くの方は、宗派や宗教の違いは心配いりませんので朝10時半からの礼拝にご参加ください。