閑話休題

自由とキリスト教

皆さんが普段の生活で接するキリスト教や、キリスト教から派生したモルモン教やエホバの証人などのグループには、人間の自由という思想が欠けているかも知れません。聖書には、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召しだされたのです」(ガラテヤ信徒への手紙5章13節)と書かれています。自由の反意語は束縛です。宗教の本意は自由にあると思います。仏教でも、悟りを得た人は、その行動に自由がみられます。一休さんなども、自由な人だったようです。宗教改革を起こしたマルチン・ルターも自由な人でした。しかし、普通の人間は、束縛や規則が当たり前だと思っていますし、中には、幼児期にインプットされた親からの束縛に縛られ、一生悩む場合もあるでしょう。しかし、基本的に、神の世界は、非束縛の世界です。だから、社会全体が戦争に賛成しても、たった一人でも、反対の立場を保つことができるのです。また、わたしたちには、生きる自由も、死ぬ自由も与えられています。死んではいけないのならば、そこには自由はありません。ただ、聖書には、神様から与えられた自由を悪いことに使ってはいけないと教えられています。「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(前述、ガラテヤ信徒への手紙5章13節後半部)とも書かれているからです。原罪に支配された人間は、非束縛の状態に置かれると、愛と反対の行動に走ります。外国などで、災害が起こると、それを口実に暴動や略奪が発生します。最近の日本も、仏教や儒教の教えが廃れているので、他人の不幸を利用し、自分の自由を悪用する傾向がみられます。しかし、神が与えた自由は、愛を基盤として「利他」を行う自由なのです。イエス・キリストは万民の救いのために、つまり「利他」を行うために、死を選ぶという自由を選択したことが理解できます。それを考えると、神が与えた自由とは、救いの真理に関係したものだとわかります。被造物の中で人間が動物より上位に置かれたいるのは、人間は動物のように自動律に支配されていないからだと思います。わたしたちも、神から与えられた自由を自覚し、日々感謝に満たされた生き方をしたいものですね。

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