閑話休題

衆生は済度し難し

その昔、「愚管抄」書いた仏僧、慈円は「おほけなく浮き世の民におほうかな我がたつ杣に墨染の袖」と歌を詠み、悟りなき衆生の救いのために志をたてました。しかし、同時に、「衆生は済度し難し」という教えも仏教にはあります。これは、仏縁がない限り、迷いの心を持った者を救うのは困難であるという意味です。おそらく慈円もそれを知っての上で、あのように述べたのでしょう。旧約聖書にも、「犬が自分の吐いたものに戻るように、愚か者は自分の愚かさを繰り返す。自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼らよりは愚か者の方がまだ希望が持てる」(箴言26:11節以下)と書かれています。最近の、アメリカのトランプ元大統領の裁判のニュースを聞いても、このような虚偽と権力意識の塊の人物をまだ支援している多くのアメリカ人がいることについて、「衆生は済度し難し」だと思わざるを得ません。かたや日本の政治だって、虚偽に満ちています。それだけでなく、自分自身の生活の仕方を反省しても、「では、どうなのか、わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も(日本人も)皆、罪の下にあるのです。」(ローマ信徒への手紙3章9節以下)という点がまさにピッタリあてはまり、やはり「衆生は済度し難し」だと痛感するのです。仏教では、救いの「縁」といいますが、キリスト教では聖霊の導きなしには救われるはずはありません。キリスト教や仏教に限らず、慈円のように、身を挺しても、度し難い衆生の救いに立ち上がる者を神様がおこしてほしいと祈るばかりです。アーメン

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