今週の説教

「芽をだせ葉をだせ実を結べ」

2020/07/18

「芽をだせ葉をだせ実を結べ」     マタイ13:1-9 聖霊降臨後第6主日説教

成長という考えはイエス様のたとえ話によく出てきます。イザヤ書55章10節にも、雨や雪は穀物を成長させ、人に糧を与えると書いてあります。自分の為だけに生きているようでも、どこかで人に糧を与えているはずです。極端な話、この世を恨んで自殺したとしても、そのことによって、棺を造っている職人には注文が一つ増える訳です。神様はわたしたちの人生をもっと良い方向に成長させ、相互に助け合うことができるように配慮しておられると思います。その点において、イエス様は勝手に成長を強調したのではなく、きちんと聖書に立って教えていたことが分かります。わたしたちも、勿論自分自身の考え方はあるのですが、聖書が教えている成長の考え方を身につけることが大切だと思います。イザヤ書55章9節には、「神の思いは人間の思いを越えている」と書いてあります。つまり、こういう事です。わたしたちは目の前の出来事に99パーセント左右されています。一例として、エルサレムの大神殿を見た時の弟子たちがそうでした。彼らはその巨大さ、荘厳さに度肝を抜かれ絶賛しました。目の前には人間が造ったとも思えない建造物がそびえていたのですから当然でしょう。しかし、イエス様は聖書信仰に立って、人間が造ったバベルの塔のようなものや、人間の国家や団体などの脆さ、またその離散の繰り返しを知っていました。神以外の創造物は砂の城に近いのです。ですが、わたしたちは、なかなか「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なる」(イザヤ55章8節)ということを理解しにくく、目の前の現象に一喜一憂しがちです。ただここで理解すべきは、神の働きには目的があるという事です。イザヤ55章10節にあるように、雨も雪も神の目的を達成するために天から降るのです。梅雨の末期には、集中豪雨で多くの人々が試練を受けますが、雨の降らない年も干ばつで悩む者がいます。雨や雪は、時には試練をもたらしますが、その反面、それは、種に生命力を与え、芽を出させ、成長させ、穀物を実らせ、種まく人を養う目的ももっています。

わたしたちはどうでしょうか。種の状態を見て、つまり目の前の現実だけで、神の目的である将来の収穫を想像できるでしょうか。小さな芽だけをみて、やがてそれが成長して花を咲かせることが想像できるでしょうか。植物なら可能でしょう。ちなみにわたしが以前買ったスイカの苗は、6月に花が咲き、8月に実りました。花が咲いてから収穫までが43日、苗の時からでは約70日かかりました。同様に、小さな苗を見て大きなスイカを想像できるでしょうか。あるいは、その途中で、将来をイメージできず、これはツルと葉ばかりのりの植物で何の役にも立たないとあきらめるでしょうか。園芸をやっているひとはそんな馬鹿なことはしません。しかし、実人生において、わたしたちの多くはその馬鹿なことをやってしまうのです。目の前のものは何の役にも立ちそうでない。だから、これはいらない。そうなるのです。ところが信仰的姿勢は違います。「信仰とは見えない事実を確認することである。」(ヘブライ人への手紙11章1節)例えば、明治時代に日本に来た宣教師の書いた本のなかに、遠い将来に日本でクリスチャンになる人々のためにわたしは祈っていると書いてありました。当時、キリスト教を信じる人は少なかったと思います。しかし、これを読んで、自分も祈られていたのだなと思いました。これも、まだ見ぬ事実です。わたしたちの周囲はどうでしょうか。いまは、葉ばかり、あるいは、水害で家財が流されて、心細い状態であっても、神の働きによって実を結んでいくのです。わたしが学生時代に初めて広島に行った時、あれは戦後20数年ぐらいだったと思いますが、原爆投下後の写真とはまったく違う都市に成長しているのに驚いたことがあります。

さて、イエス様の活動範囲はガリラヤ湖周辺でした。群衆が集まった時にはイエス様は、船から少し高い岸にいる人々に話しました。語る人が下にいて丁度音が上に上がっていくところに階段状に人がいるとよく音が聞こえるものです。ギリシアの野外円形劇場の音響がそうでした。それはそれとして、イエス様はいつものように例え話で語りました。たとえ話は、聞く人に疑問の心を起こし、発見の喜びを与えたと思われます。結論を教えるわけではないのです。例話から、自分で考えて答えを見つけるわけです。この時の喩話は種まきの喩でした。イエス様は人々が理解しやすい話をしました。その一つが種まきの話です。当時の種蒔きは、広い場所に自由に蒔く方法だったそうです。後で耕して種と土を混ぜたようです。日本では、大根などはペットボトルの尻ででくぼみを作っておいてそこに4、5粒蒔き、芽が生えてからだんだん間引いていきます。ですが、地面に直接まいたら、鳥に食べられてしまうでしょう。また、蒔いた土地も大切です。特にイスラエルでは岩だらけの土地も少なくありません。そこでは芽を出しても根を張れないので日照りで枯れてしまいます。ここに至って、これは信仰の種のことを比喩しているのだと気づかされます。鳥が来て食べるとは、信仰を持っても、この世の誘惑にさらわれてしまうわけです。日照りとは様々な試練でしょう。これには耐えられません。茨の間に播かれた種というのは、この世の心配や願望が信仰以上に強くなって、信仰を弱らせてしまうことでしょう。それは実を結びません。ある聖書学者は書いています。「種まきのたとえは、伝道の大部分が失敗なのだということを示している。」あの明治時代の宣教師も、失敗の連続だったのでしょう。神の言葉を受け入れる人は少ないものです。しかし、良い土地に落ちた種は芽を出し葉を出し成長し、花を咲かせ実を結んでいきます。それはまさに、イザヤ書に書かれている「神の思いは人間の思いを越えている」ということです。わたしたちには、なぜ、ある種が鳥に食べられたり、枯れたり、日陰で弱ったりするのか、何故神がそれを容認するのかがわかりません。何故、日本では、地震、津波、火山噴火、豪雨、台風など、自然災害が多いのかもわかりません。ところが、困難があっても、神の種は、100倍、60倍、30倍にはなるのです。戦後の日本の大都市は廃墟になりました。しかし、そこから復興し成長しt世界有数の経済大国になったのです。ですから、まだ将来の姿を見ることはできなくても、イエス様のこの話を聞いているという事自体が、実は良い畑ではないでしょうか。それをイエス様は言いたいのだと思います。わたしたちが、この聖書の箇所を読めていること自体が恵みではないでしょうか。そしてイエス様の教えを悟ること、それは実を結ぶことです。「信仰とは、まだ見えぬ実を実感して、感謝すること」、という解釈ができるでしょう。

これこそ福音だと思います。ガラテヤ書5章22節以下で、パウロが信仰の実りを語っています。それらの実は、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」、だと言います。これはわたしたちが、まだ見えない事実であるのに、神の恵みによって、愛の人、喜びの人、平和の人に成長している姿を確信できるという事です。

ただこの成長は誤解も生みます。人間に注目するからです。パウロも教会の信徒の成長に心を砕きました。なかなか信仰が成長しないように見えます。それは人間的な結果だけを見ていたりするからです。今月のルーテル教会の機関誌にある牧師さんの体験談がでていました。教会の伝道のために、教会でパソコン教室をやっていたそうです。あるとき、過去の生徒のひとりが大病し、牧師と話したいという連絡をうけました。病院を訪ねてみると、その場で洗礼を受けたいとのことでした。牧師さんは、その人がパソコン教室に来ていたころには、この人は信仰とは無関係だろうなと思っていたので、外面で判断していた自分を恥じたそうです。それは、見えない事実だったのです。それだけでなく、病床洗礼をうけたその人から、病気と死に対する人間の恐れから救うのは、イエス・キリストの復活の信仰しかないと、牧師さんは教えられたのです。これは牧師さんの成長の一コマでした。わたしにもそういう経験があります。おそらく、あの明治時代の宣教師の先生も、多くの失敗を通して、目に見えぬ将来の恵みを確信する人に成長させていただいたのでしょう。

パウロの時代には、アポロという宣教者もいました。とくにコリント教会ではアポロが活躍していたようです。アポロは使徒言行録(18:24)によれば、当時の学問の中心地であったアレクサンドリア出身で雄弁家であったそうです。また、ものすごく熱意のある人だったようです。ただし、コリントの人々はパウロとアポロを人間的に比べてみて値踏みしていました。つまり外面的な結果だけを見ていたのです。そこでパウロは、第一コリント3章4節以下で、植物の喩をもちいて、パウロの働きとアポロの働きを説明しています。アポロもパウロも、天から神が与える雨や雪と同じで、信徒の成長の糧だと言うのです。パウロは信仰を植え、アポロは水を注ぐが、実は神が成長させてくださる。だから、人間中心に考えてはいけない。「大切なのは成長させてくださる神です。」(第一コリント3章7節)そして、わたしたちには、鳥の害、日照りの害、茨の害があったとしても、神はそれに屈服する方ではないので、将来必ず100倍、60倍、30倍の収穫をあげる「良い畑なのだ」とパウロは宣言しています。罪人であっても、あなたは既に聖なる者とされたと、宣言してくださるのと同じです。福音です。イエス様もまさにこの点を強調しています。人生には、鳥の害、日照りの害、茨の影響があり、これは努力で避けられるものではありません。自然災害も同じです。しかし、悩むことはない。むしろ、成長させてくださる神を信じることです。「神の国は実にあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17章21節)蒔いても蒔いても鳥がさらっていってしまうような、外面的には徒労に過ぎない時にも、信じて蒔き続けることです。日照りが続き、試練が続き、力尽きそうになるような時にも、信じ続けることです。この世の茨が茂っていく先が見えないような時にも、見えないものを信じる信仰で進み続けることです。あなたは心配してはいけない、あなたと共にわたしはいる、わたしはあなたに必ず喜びをもたらすと約束されているのです。詩編にこう書いてあります「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩編126:5)これは、我が家の墓標の刻銘でもあります。また、それはまさにイザヤ書55章11節の「神の言葉は必ず約束を果たす」という預言の成就です。これを信じましょう。

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