神明神社の杉の木とヘブロンの樫の木
岐阜県の神明神社で神木とされていた、樹齢1200年以上の杉の大木が斃れたそうです。1200年前というと、中国から帰った空海などが活躍していた時代です。そうした歴史を見つめてきた木が一つの時代を終えるのは淋しい気がします。また、人間と木とは不思議な関係があるように思えます。わたしがイスラエルに留学していた時に、エルサレムの南方30キロくらいにあるヘブロンにいったことがあります。創世記に書いてある、マムレの樫の木を見たかったからです。ヘブロンは危険な地帯で、観光客などはあまり見られませんでした。わたしが、マムレの蟹の木をみたかったのは、ここで、アブラハムが天使のお告げを受けたからです。それは、今から4000年ぐらい前の事でした。アブラハムは樫の木の所で、三人の神の使いに出会ったのです。そして彼らを親切にもてなしたアブラハムに対して、「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」(創世記18章13節以下)、という主の言葉が語られたのです。この「主に不可能なことがあろうか」という表現は聖書に一貫した思想ではないでしょうか。マリアさんへの受胎告知の際にも、天使が「神にできないことは何一つない」、と告げています。「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに映れ』と命じても、そのとおりになる」、とも書いてあります。それはともかく、ヘブロンに行った時には、想像していた様な樫の木は既に枯れてロシア正教の教会の敷地内にあり、マクペラの洞窟の上には2千年前のエルサレムの神殿を彷彿させるような壮大な建物が建っていました。入り口にはヘブライ語で、アボテイヌー・アブラハム(我らの父、アブラハム)と書かれており、内装が白と黒の縦縞になっており、葬儀屋でアルバイトしたことのある自分には、シルクロードを通じて、東西文化の接点があるのかなと思わされました。それにしても、人間の遺伝子のテロメアの連鎖は途中で切れてしまうのに、木や植物のテロメアは条件さえよければ永遠に再生します。以前に買って植えた事のある、「ツタンカーメン王のエンドウ豆」は、紀元前1300年ごろのものですから、3300年前の生命が続いているわけです。また、行ったことはありませんが、聖書にも書かれているレバノン杉などはまだ残っていて、樹齢は5千年に達しているそうです。神木と言いたくなるような気持ちはわかりますが、生命の不思議と生命の可能性が神聖なものであると考えると良いと思います。なぜなら、古代ヘブライ語で、神という名は発音が禁止されていましたが、そのスペルを見ると、ハ・イーであり、命という意味だと思います。日本の天皇家の三種の神器の一つの鏡の背面にも、ハ・イーと書いてあるという説があります。神を信じるというのは、ご神木や仏像を信じるわけではなく、そういうものを想像し維持している命の存在の原点と可能性を信じることだと思います。前に述べていたかも知れませんが、わたしは若いころは唯物論者であり、ファオエルバッハなどに共感していたのですが、その後、神を否定したニーチェさえ神の存在を意識していたということがわかりました。樹木についてはニーチェがこう言っています。「天にまで届く大木は、地獄にまで根を張っている。」あの、神明神社の大木は、おそらく地面の下の岩盤のせいでしょうか、根の張りが浅かったですね。前に住んでいた八王子の近くの高尾山でも、倒木は岩の上に生えた木が多かったようです。わたしたちの人生においても、深く根を張ることの大切です。シモーニュ・ヴェイユも「根を持つこと」ということを書いています。神明神社の大木も、倒れてみてわかったのは、デラシネだったということでしょうか。一方で、アブラハムの方は、樫の木は枯れても、いまだにその存在は人類の歴史から消えていません。