ワンポイント説教 マルコ福音書8:27-38
今回の個所で重要なのは、34節にある「キリストに従う」と「自分を捨て」の2点です。ただし、「自分を捨て」という新共同訳聖書の訳より、永井直治個人訳にある「己自らを否み」の方が原語の意味に近いと思います。つまり、自己否定ですね。他方、「自分を捨て」だと、捨てようとしている自分である自我がまだ残っていて強く働いている印象があり、自己否定とは縁のない表現となり下がっています。究極の自己否定とは、苦労して自分を捨てようとする能動的(つまり極めて人間的な行為、サタンの所為)行為ではありません。究極の自己否定とは、この個所でイエス様が述べているように、十字架を負うことであり、死の受容のことです。驚くことに、死の受容が起こるときに、それは復活の命によみがえることなのです。イエス様の話を聞いた弟子たちは、この時点では、死と命の関係を理解できなかったでしょう。わたしたちも同じです。しかし、死と命の関係が理解できたときに、古い存在の死の象徴である洗礼が理解できるのです。洗礼こそ、古い己の死を受容し、新しい神の命に生きることなのです。ですから、過去二千年間、キリスト教会は、知識ではなく洗礼を伝えてきているのです。知識が増大すれば、人間の根底にあるサタンが増大するのに過ぎないからです。救いは、死の受容にあるのです。そんなわけで、今回は、短い箇所でしたが、キリストの教えの根幹にかかわることでしたね。神様のお導きによってこの真理が理解できれば、この世に渦巻く悩みや苦しみは消え去ることでしょう。なぜなら、生きるための悩みは、神の絶対愛を信じ自己の死を覚悟したものを悩ますことはできないからです。それが、イエス・キリストに従うということです。