今週の説教

11月3日菊川ルーテル教会伝道説教

「イエス・キリストの泪」   ヨハネ11:17-44  2024年11月3日
特別の祈り     
わたしたちの贖い主である、全能の父なる神様、わたしたちは自分の弱さのために、この世であなたの愛と希望を伝えることができていません。どうか、聖霊によってわたしたちを新たに生まれ変わらせ、福音の器(うつわ)とならせてください。父と子と聖霊のみ名によってお祈りします。アーメン
讃美歌21 358番、280番、404番、81番、88番

さて、今日の福音書の箇所を見ましょう。ラザロが死亡したと聞いたイエス様は、エルサレム近くのベタニア村に行きました。ここは、わたしもエルサレムに住んでいた時に行ったことがあります。今日の日課よりも前の部分に書かれていますが、イエス様は当時ヨルダン川の反対側、エリコの東にいて、そこからはかなり距離があったと思われます。おそらく50キロくらいでしょうか。ベタニア村に着いた時には死後4日もたっていました。姉妹のマルタはイエス様が命の救い主であることをまだ十分に信じていませんでした。そこでイエス様は、「わたしは復活であり、命である」と告げたわけです。つまり救い主とは、生命そのものだというのです。救い主が命であるということは、命の反対の勢力である死と罪の力から救う方だとわかるのです。「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださる」(第一ヨハネ4:15)つまり、救い主を信じることは命に導くのです。
さて、ヨハネ11:28以下を見ましょう。ここで、マリアは、家から出て行ってイエス様を迎えました。そして泣きながら埋葬場所へ案内しました。イエス様も泪を流されました。ちなみに、泪には、さんずいに目の泪と、さんずいに戻ると書く涙があります。これは、中国の漢字の使い方によると思います。泪は、そのまま目から流れる水で、中国語ではレイ(四声)で発音します。一方、涙のほうの、戻るの意味は、罪ですので、悪いことをして悔やんで流す泪のことです。発音はリー(四声)ですから、レイに近いものです。イエス様が流された涙は、もちろん泪だと思います。
ところで、死に対して、イエス様はスーパーマンではなく、死を克服しているが、死の悲しみを無視はしていないことが聖書を読むとわかります。わたしたちの深い悲しみを本当に共有して下さった方がイエス様であると聖書は証しているわけです。ですから、わたしたちも信仰者であるから悲しんではいけないとか、失望してはいけないと思う必要はまったくありません。まさに、人生の喜びと悲しみの、その真っ只中に救い主は働いておられるわけです。
今日は全聖徒の日を覚える礼拝であり、前回、菊川教会の方から、昇天者名簿のコピーをいただきました。その中には、明治28年に生まれて、大正、昭和、平成と生き、98歳で亡くなった方がおられます。一方、まだ若くて、20代で亡くなった方も2名おられます。ご家族にはさぞかしつらかったことと思います。わたしも、大分県の別府教会の牧師をしていた時に18歳で亡くなった高校生の葬儀を行ったことがあります。これも、突然の死で、お風呂に入っていた時に癲癇の発作が起きて水死してしまったのです。病気の後の死では、ご遺体もやつれていますが、その女の子の場合には、本当にただ眠っているかのようで、それがかえって悲しみを大きくしました。同じように、まだ若かったラザロの死も家族にとって、そしてイエス様にとって、悲しいものだったでしょう。
特に33節と、38節にある「心に憤りを覚える」という言葉は重要ですが、十分に日本語になっていないので理解しにくい表現です。原語では、エムブリモーメノスで、敵対者に歯をむくというような意味です。つまり、この意味はイエス様は死という人生最大の敵に憤りを覚え、挑みかかったという事です。聖書では、「罪によって死が入り込んだ」(ローマ5:12)と書いてあります。この死を否定して、復活を説くイエス様は、罪と死と対決される方だったということです。
イエス様が救い主であることは、ただ優しい愛の人だけではなく、死の力と戦う方であると聖書は示しています。その戦いの武器は刀や槍ではなく信仰です。40節で「信じるなら神の栄光が見られる」と約束されています。わたしたちはラザロの復活に目を奪われがちですが、42節の言葉が重要でしょう。神がイエス様を救い主として遣わしたこと、これが重要です。イエス様は、多くの人々に、単なる神信仰ではなく、救い主の信仰を伝えたのです。神信仰は熱心な人や強い人に示されるでしょう。しかし、それは人間の力の保持でもあります。救い主の信仰は違います。完全な無力の闇に咲く花なのです。信仰心がまだ未熟なときに、目の前の死の問題に悲しみ悩み人生がメチャメチャになるかもしれません。実は、そうした無力さが自覚されたときに、本物の信仰が始まるのです。それは、苦しむ者を遠くから見ている神ではなく、苦しむ者と共に苦しみ、泣いてくださる救い主への信仰です。泪の信仰です。
 いよいよ、イエス様の一行はラザロの墓にきました。墓とは全てが終わるところです。ところが、聖書では、終着駅である墓の中から、まったくあたらしい命の誕生が始まると告げます。イエス様は41節にあるように、死の場所である墓で、命の与え主である天地創造の神に語りかけます。イエス様の祈りです。「願いを聴いてくださってありがとうございます。神がわたしを遣わしていることを信じさせてください。」そして、出てきなさいと命じ、ラザロを生き返らせました。死の住まいである墓から出てきなさい。死の世界、不満、恐れ、ストレスの暗い闇から出てきなさい、あなたの自由なき生活、つまり死の支配、霊的な死の世界から出なさい、そのように呼びかけられたのです。これはわたしたちへの呼びかけでもあります。実は、死んでいるのは、ラザロでもなく、罪に死んでいるわたしたちなのです。
そして、救い主イエス・キリストの泪は、わたしたちを生き返らせる泪でもあります。古い、悲しい、暗い、死の世界からあなたは光の中に出てきなさいと、今日も呼びかけられています。ここには、神が永遠の神でありつつも、人の子イエス・キリストとなったという、キリスト教教義の神秘が語られているのです。ですから、黙示録3:17のラオデキアの教会に向けた言葉にあったように、わたしたちは「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であること」を自覚することが救いの第一歩です。それがわかる時にラザロ、「神助け給うの意味」の名前がわたしたちの新しい名前となることでしょう。神の愛は今日もわたしたちにそそがれています。そして御子は、今日も、古い死の世界から明るい救いの命の中に出てきなさいと、泪を流しながら、わたしたちにも、すでにこの世を去った者たちにも呼びかけてくださっているのです。

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