自分が過小評価されていることは悪いことではないと知る説教
「貧しき者の幸い」 ルカ1:46-55
今日の日課の部分は、マリアの賛歌と呼ばれています。最初の「わが魂は主をあがむ」というラテン語からとって、別名、「マグニフィカート」とも呼ばれています。あがめるとは、日本語の褒めるとちがってギリシア語でメガリュオー、大きくするという意味です。神の恵みを、巨大に見ること、つまり現在の自分は恵みに囲まれているという意識の中に福音があります。普通の人間は逆だそうです。困難を巨大にみて、恵みを極小に評価します。皆さんの、この一年はどうだったでしょうか。また、喜びたたえることは、ハッピーな気持ちでいることです。このマリアの歌が、私たち自身の人生の賛歌となるならば幸いなことです。
この恵みについて、こんな例話があります。アメリカにある貧しい母親と息子がいました。息子は大変に親孝行でした。熱心に仕事をして半分は母親に渡していました。ところが戦争がおこりました。戦地での息子の安全を母親は毎日祈りました。現在のウクライナ戦争のようなものですね。ところが息子が戦地に行ってからは、手紙はよく来ていたのですが、仕送りが途絶えてしまいなした。何か悪い仲間に入れられて生活がすさんでしまったのではないかと、母親は心配しました。知人に相談して、息子からの手紙を見せると、そこに小切手が入っていました。母親は小切手と言うものを知らなかったのです。ただの紙切れだと思っていたのです。これはまさに、神様が送ってくださる恵みの憐れみを知らない状態の譬えではないでしょうか。人生に送られてくる神の恵みを過小評価したり、この母親のように鞭であって、悲しみと心配にとらわれてはいないでしょうか。恵みを理解していないのは、わたしたちの姿ではないでしょうか。
あるいは、マリアの賛歌のように神の憐れみは限りなく大きいと、わたしたちも言えるでしょうか。とくに、日本人は「他人から憐れんでもらいたくない」と見栄っ張りな国民性をもっていると言われていますので、神の憐みという表現は受け入れにくいとも考えられます。
日本人の多くは、人から憐れまれるような存在になりたくないと思っているでしょう。ですから、自分自身の努力で、一所懸命頑張って仕事に励み、自分や家族を支えています。でも、現在のような困難な生活環境では、どうしても憐れみを乞わなければ生きて行けない場合も少なくないでしょう。ホームレスの人たちもその一例です。わたしが京都に住んだ時には、京都大学卒業という高学歴のホームレスにあったことがあります。でも、実際にホームレスの人たちの本音を聞いてみると驚きます。自治体の清掃業務の為に登録カードがありますが、そういうカードの仕事したくないという人がいるのです。収入にはなるが、上から目線で仕事を世話されるのがいやだというのです。ホームレスでも、憐れまれたくないという日本人のプライドはのこっているのです。おそらく、ホームレスになったのも、もしかしたら、プライドを捨て切れなかったからかもしれません。
であは、マリアはどうだったでしょうか。マリアの時代は約400年間預言者が起こされていない、霊的な暗黒時代でした。そのような中にあって、聖霊によってマリア自身から生まれ出るという天使のみ告げを聞いて、マリアは喜びました。神の偉大さ、ギリシア語でメガリュオー、に注目すればするほど自分が小さく見えます。自分が小さくなればなるほど、自分の評価は気にならなくなるものです。
わたしたちもマリアのように、心から主に仕えていればよいのですが、いつしか、神ではなく自分とか、周囲の出来事があまりにも大きく見え、自分があまりにも小さく見える時があります。人生はこの戦いです。マリアが自分のことをはしためであると表現しましたが、これは女奴隷という意味です。プライドの高い日本人には、これにはなかなか言いにくい言葉だと思います。しかし、マリアはみ言葉の偉大さを信じて、その恵みを値なしに受ける自分自身を奴隷のように謙譲することができたのです。
マリアの賛歌こそ、貧しいもの、つまり奴隷の賛歌です。マリアの賛歌は、48節にある、身分の低いもの、はしため、に対する巨大な恵みへの賛歌です。マリアから生まれた、イエス様はさらに低い姿勢へと、十字架へと向かって行かれたのです。それは、神御自身が、崇高な立場を捨てて、屈辱の十字架を負ってくださったことを暗示する、秘儀です。これを、ミステリオンといいます。まさに奥義です。高いものが低くなってくださったことです。クリスマスは神の子が馬小屋に生まれたことに、象徴されています。それは人間の罪を上から目線で指摘するのでなく、罪の為に苦しむ者より、さらに下に立ち、それだけでなく、本人が受けるべき処罰の身代わりになってくださったことを暗示しています。
今回の「マリアの賛歌」は、サムエル上2章の「ハンナの祈り」と多くの共通点があることが指摘されています。しかし、「マリアの賛歌」には「救い」と対比になるべき「裁き」がありません。「救い」オンリーの世界です。ルターがとなえた、恵みのみの世界です。ですから、マリアは、あくまで「憐れみ」を歌ったのです。つまり、マリアが自分の弱さを徹底的に感じていたからでしょう。
聖書の教えは、自分の力で行おうとすると、大変難しいことが分かります。そして努力に挫折して終わってしまいます。しかし、マリアは自分の力ではなく、自分を通して神様の力が働いてくださるのだと、確信していました。わたしたちもそれでいいと思います。私自身もその考えで生きてきました。自分が正しいのではなく、自分は奴隷にすぎず、神こそが、主である神なのです。これを知るとき、どんなに弱いものでも元気に生きて行けるのです。それこそが福音です。それは、マリアの功績とか人柄によるものではありません。ルターは奴隷的意志論でこの点に触れて言いました。「神は謙遜なもの、すなわち自己に絶望するものに、たしかに恵みを約束している。人間は自分の救いが、全く自分の力、計画、意志、行いの外にあり、全く神のみの意志決定、計画、行いに依存しているということを知らないかぎり、徹底的に謙遜とされているとは言えない」。このことを理解するとき、わたしたちも、クリスマスに、マリアと一緒に、「人はわたしを幸いな人というでしょう」と宣言することができるでしょう。人知ではとうてい計り知れない、神の平安があなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださるように!