閑話休題

カッコウの巣の上で

コロナの影響で外出を控え、映画などを見るようにしています。今回は、「カッコウの巣の上で」という70年代の古い映画をみました。これは前から知っていた有名な映画ですが、どうも、ジャック・ニコルソンの狂人のふりをした顔が気持ち悪くて、見る勇気がなかったわけです。ただ、実際に見てみると、さすがにアカデミー賞などを受賞するくらいの内容のある映画でした。怖くもなく、笑える部分もたくさんあり、胸にジーンとくる場面も少なくなかったです。聖書では、ダビデ王が敵の追跡を逃れるために、狂人のふりをしたと書かれていますが、ジャック・ニコルソンも刑務所での服役を逃れるために、精神病院を選んだのです。そこには本物の狂人たちが、実に素朴で人間らしく暮らしており、その素朴さを利用して、非人道的な管理が行われていたわけです。精神を患っていたわけではないジャック・ニコルソンはその強制的管理に次々に反抗します。そして、心を失っていたような人々にも、小さな喜びが芽生えていきました。最後には、そうした新しい試みが病院側の権力によって、すべて圧殺されていくのですが、それでも消えることのない希望の光も描かれていました。その象徴は、病棟内にあった巨大な石造りの給水台です。この映画の伏線はこれだと思います。誰も動かす事が出来ないような給水台を両腕で抱えて、元気なころのジャック・ニコルソンは、これを投げ飛ばしてみせると大見えを切ったことがありました。勿論できなかったのですが、「でも。俺は挑戦したよ」と言い残しました。結局、ジャック・ニコルソンは権力に潰され、反抗への防止処置としてロボトミーを施行され、本当の廃人になってしまいました。しかし、彼の遺志を継いだインディアンのチーフ(酋長の意味)が、その怪力で、給水台を持ち上げ、投げて窓ごと吹き飛ばし、堂々と、この死の施設を出ていったのです。ジャック・ニコルソンが最初に見せた伏線の意味は、自由への一歩でした。この一歩を踏み出さない限り、精神病でなくても、人間は社会に押しつぶされているのです。そして、この一歩のために犠牲になる者がいたのです。そして、犠牲になった者の死は無駄ではなく、残る者に自由への旅立ちを与えたのです。スゴク深い内容だと思いました。出エジプトの苦難の旅を想起させます。奴隷の国エジプトを脱出して自由の国に向かった途中でモーセは死にます。その遺志を継いだ若きヨシュアに、神はこう語りかけました。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」(ヨシュア記1章5節以下)

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