中国のミサイルと映画「米中開戦」
「米中開戦」という映画の最後は、中国の核ミサイルによって、威容を誇るアメリカの太平洋艦隊が全滅してしまう場面です。今回、中国が南海に撃ち込んだミサイルは、それも非現実的な事ではないという警告です。知人の中国人の話では、米中関係ではものすごく戦争の危険がたかまっているという事でした。われわれはそれに関心なく、毎日毎日、コロナ報道で頭がいっぱいです。「米中開戦」という映画の中での戦争の発端は、北朝鮮軍との小規模な戦闘とハッカーによる情報操作でした。ただこの戦争映画の一般の評価は低いものでした。これを見ても、こんな戦争は決して起こしてはいけないという気持ちになりません。低予算で陳腐な画像を制作したからだという人もいます。わたしの意見では、問題は予算や画像ではなく思想です。戦争という題材を扱うのに、生身の人間の痛みが伝わってこないのです。これは、監督の誤りだけでなく、近代戦争の重大な過失から来ていると思います。第一次世界大戦以降、航空兵器を使う一般人や兵士に対する無差別の殺害が許容されるようになって、痛みが見えない戦争になっているのです。エノラ・ゲイに乗って原爆を落とした機長も、実際に、骨肉を裂かれ焼けただれた一般人を見たわけではないので、心は痛まないのです。「日中戦争」という本のことについて前に書きましたが、民衆の悲痛を感じる著者の感性とは違い、日本軍の多くは痛みを感じない殺人マシーンになっていました。過去のことではなく、現代の社会に目をやれば、いじめなども被害者の痛みを感じない一種の戦争です。わたしたちに必要なのは自他の痛みを痛切に感じる力、「痛みの復権」ではないでしょうか。聖書を見るとこう書いてあります。イエス様は、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ福音書9章36節)注意すべきは、ここでの「深く憐れまれた」という言葉です。これは同情の表現ではありません。原語であるスプラギゾマイというギリシア語をキッテルの辞書で調べてみると、「他者の苦しみにたいする内臓がちぎれるかのような痛みを表現し、基本的には神の側にしか用いられていない」とあります。人間が原罪によって失ったのはエデンの園という楽園だけでなく、この神の痛みではないでしょうか。(北森嘉蔵著「神の痛みの神学」参照)神の愛とは、神が被造物の苦境に対して覚える痛みであるとも解釈できます。痛みの復権は愛の復権でもあるのだと、聖書は告げているように思えます。同じ戦争映画でも、「人生は美しい」というイタリア映画が感動的なのも、痛みと愛とが描かれているからです。