今週の説教

あなたが嬉しければわたしも嬉しい

聖霊降臨後第14主日説教、「あなたが嬉しければわたしも嬉しい」     マタイ18:15-20

イエス様は、神を信じることが必ず隣人との交わりを生みだすと教えました。一人ではなく、何人かが集まる時にイエス様が共にいるのです。ただ集まるのではありません。イエス様の名によって集まるという事は、救い主への信仰を持って集まることです。この隣人性というのは良きサマリア人の話がそれです(ルカ10:25以下)。この例話では、神を信じているような祭司や神殿に仕えたレビ人さえも、強盗に襲われて道端に倒れていた人を無視して通り過ぎてしまいました。隣人に対する意識が薄かったのです。倒れていた人の本当の隣人になったのは、ユダヤ人には差別され軽蔑されていたサマリア人でした。
宗教が、隣人に向かわず如何に自分のことばかりになるかをイエス様は知っていました。例えば、イグナチオ・ロヨラの「霊操」を見てみましょう。彼はイエズス会の創立者です。宗教改革の年1517年に、彼は26歳で、カトリック教会内にプロテスタントへの対抗改革運動を起こしたのです。その「霊操」、つまり霊の体操、という本にこう書いてあります。「神を賛美し仕えるために、友人や知人から遠ざかることによって神の前に功徳を積むであろう。このような人は心を散らさず、自分の霊魂の利益にだけ心を配るであろう。」まさに「友人や知人から遠ざかる」態度こそ、イエス様の例話にでてくる祭司的行動です。また、ロヨラが強調するような「功徳」を聖書は認めていません。「神は、わたしたちの行った義の業によってではなく、ご自分の憐みによって、わたしたちを救ってくださいました。」(テトス3:5)と書いてあるからです。つまり救いはイエス様の十字架と復活という神の側の働きによって完成しているのだから、自分の「霊操」や「功徳」によって救われようと言うのは誤りになります。それに、「霊操」の最初には「わたしを聖化してください。わたしを清めてください。わたしの強めてください。わたしを守ってください。」という祈願が書かれています。そこには隣人性が見られず、自分の事ばかりです。
宗教という言葉は英語でレリジョンであり、これが関係という言葉のリレーションと同じ語源であることは知られています。リレー競走のリレーとも同じです。リレーしている途中で、立ちションしたらレリジョンになるかもしれません(笑)。箱根マラソンもリレーですね。一度、たすきを渡し損ねて失格した大学があり、選手の残念そうな顔がとても気の毒でした。リレーションの失敗です。しかし、信仰する者は、もはや一人ではありません。孤独で苦しい人生のマラソンを走るのではないのです。ですから、サマリア人は怪我した人を介抱しただけでなく、宿屋の主人にお金まで払って世話をお願いしています。イエス様はそのことを熟知していました。自分の霊的向上が宗教の目標ではないのです。
ただ、人間の罪とは隣人を忘れてしまう事にあります。創世記にも、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2:18)、と書いてあります。人間が孤独になってしまうと、人の悲しみ、人の苦悩、人の痛みが分からなくなってしまいます。殺人などの犯罪の例を見ても、リレーションであべき関係が切れていて、相手を物と同じに考えてしまうので起こるわけです。
さて、わたしたち自身はどうでしょうか。レレ―ションが切れた孤独な姿は、もしかしたら、わたしたちを含む人類全体が苦しむ原罪の姿を示してはいないでしょうか。孤独死なのがその一例でしょう。反対に、隣人と共に神を見上げて礼拝し、賛美し、感謝して生活していているときは、罪に落ち込みにくいものです。野球でもサッカーでも、チームスポーツで活躍している選手たちはリレ―ションに置かれ、生命力に満ちています。
面白い例ですが、わたしがイスラエルに短期留学した時には、毎朝夜明け時に、旧神殿の嘆きの壁に行ってお祈りしていました。ある時、無理やり腕をつかまれてユダヤ人のお祈りのグループに入れられたことがありました。後で聞いたら、彼らのお祈りは10人なりの定数を満たさないと成立しないとのことでした。わたしは定数成立のための外人部隊だった訳ですが、それでも彼らが関係を大切にしているのには驚きました。
さて、マタイの福音書の日課をみましょう。この部分をある人は、罪ある人の追放手続きが書いてあると言います。それも間違いではないでしょう。ただ、この記事は、二人が心を一つにするという後半部分に関係するように思われます。それは罪の赦しと関係あります。ある学者が書いています。「罪の赦しとは何か、と言えば具体的にはキリストの現在(現実存在、あるいは実在のこと)である。罪の赦しがなければキリストは現在し給わらない。キリストが現在したまうときに、われわれと神との間に距離がない。」そうです。神との距離がない時、それは、リレーションが成立している時であり、隣人との距離がないわけです。二人か三人が、イエス様の名によって集まる場所、これは伝統的には教会堂、現代ではネットやその他のメディアを通して結ばれているわけです。逆に、人を赦さない態度は、孤立であり、他者の遮断・隔絶であります。それが自分だけの世界であり、罪の世界なのです。
わたしたちはそういう罪の世界に慣れてしまっています。だから、旧約聖書のエゼキエル書にある通り、「悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人の死の責任があなたにある」(エゼキエル書33章8節)と書かれているのです。
罪に関しては、何度でも時間をかけて相手の罪に対して自覚を促す事が必要です。「7回どころか7の70倍まで赦せ」とイエス様は教えました。7が完全数ですから、完全に赦しなさい。条件をつけないで永遠に赦しなさいというのが、基本です。そこには隣人を大切にする態度があります。サマリア人が見知らぬ旅人を丁寧に助けたのと同じです。
そして、それはわたしたちが幸せな人生を歩むためでもあります。赦さないで憎んでいる人と、赦してしまって心も軽く明るい人では、どちらが幸せでしょうか。一人ひとりの信仰者にもこの赦しの権威と喜びが与えられています。ルターが教えた万人祭司制です。信仰者は孤立せず、祭司あるいは仲保者として他者と関わるのです。インターネットも現代的なかかわりの手段です。これは、イエス様が愛の隣人性によって天国にわたしたちを糸で結んでいてくださるという事です。
昔、芥川龍之介という小説家が「蜘蛛の糸」という短編小説を書きました。カンダダという悪人が地獄で苦しんでいたが、彼は生前に一つだけ良いことをした。それは蜘蛛を踏み潰しかけたが、助けたことでした。そこでお釈迦様が天国から蜘蛛の糸を垂らしてカンダダを救おうとした。しかし、途中まで登ったカンダダが下を見ると、大勢の罪人が登ってきていました。糸が切れたらいけないと思い、彼は「これは俺の糸だ」と叫んでしまったわけです。隣人を無視し、遮断したわけです。すると、糸が切れ、彼は再び地獄の奈落に落ちてしまったのです。
人生で大切なのは糸を独り占めしない事です。共に生きる事です。喜びも苦しみも共に生きることです。それが、イエス様の教えです。「二人が地上で心を一つにして求めるなら、神はその願いを叶えてくださる」という事です。天国の入場券に「おひとり様だけ有効」とは書いてありません。ご家族様全員有効、兄弟姉妹様全員有効、外国人異人種の方々差別なく全員有効、なのです。ですから共に祈り、共に奉仕し、共に感謝して行きましょう。自分中心に考えず、後ろを振り返らず、わたしたちにイエス様から与えられている信仰のリレーのバトンを受け取り、次の人に渡す、サマリア人のような生き方をさせていただきたいものです。印西インターネット教会もそれを目指しています。

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