ニセモノ信仰の横行を告発するヤコブ
ヤコブの手紙2章18節 -22節
文責 中川俊介
18節において、ヤコブは対話形式で彼の持論を展開します。これは読者に強い印象を与えたと思います。つまり、よく演出された劇のように、観客がその物語の一部であるように感じさせるからです。「誰かは言うでしょう」、というのは勿論架空の誰かです。そして、その人は批判的に、あなたは信仰を持っていて、わたしは行いを持っていると言います。それだけではなく、あなたが持っているという信仰を見せてくださいと迫るのです。この場合の「見せる」という動詞は、デイクニューマイであり、それは指し示すとか立証するという意味です。ですから、単に見せるのではなく、その信仰が実在のものなのかどうかを証明してみてくださいということです。このように言われたら、信仰を持っていると公言している人はどのように答えたらよいのでしょうか。信仰が、単なる思考の産物ではなく、生活の一部であることを明らかにしなさいという要求です。「精神と身体を分け、信仰をただ心の問題とする時、二元論が起こります。」[1] これは宗教を精神の世界にのみ限定して生きようとする者には手厳しい指摘です。「真の信仰は、行いなしに存在することができない。」[2] イエス様が指摘したのも律法学者や他の宗教者におけるそうした欺瞞だったのではないでしょうか。
そして、さらにこの要求は続きます。あなたは行いの伴わない信仰を見せなさい、わたしは行いを伴う信仰を見せましょう、というのです。「ここにある思いは、読者たちが二種類あるいは二段階に信仰を区別しているということではあるまいか。」[3] また、この場合の「行い」とはギリシア語のエルゴンであり、単なる働きではなく「律法が正しいとしている行為」という意味です。特にヤコブの場合には、一般的な行為ではなく「神への従順さをあらわす隣人への愛の行為」[4]、なのです。ですから、ヤコブは旧約聖書からの伝統に立って、神における言葉と愛の行いの一致を問うているのだと思います。キリスト教もユダヤ教の伝統を引いていますから、言行一致とはマストであり、揺るがせない信条であることは間違いありません。その点はイエス様の教えにも多く見られるものです。
次に、19節でヤコブは神に言及します。人間関係の問題から、急に神の事柄へと飛躍するのはどうしてでしょうか。ヤコブは言行一致しない問題の根源は、神観にありと踏んだのでしょうか。「神の存在を認めるだけでは人は救われません。」[5] 神は唯一の神であるというのはユダヤ人なら誰でも知っていることです。ちなみに、現代のイスラエルでも公共放送が早朝に開始される時には「シェマー・イスラエル、アドナイ・エロヒヌ、アドナイ・アハッド」(イスラエルよ聞け、我らの神は、唯一の主である)という申命記6章4節の言葉から始まります。この言葉は一日に二度となえられるそうです。ヤコブの心にある信念も同じであったでしょう。「それこそは、まぎれもなく信仰の核心である。」[6] ただ、相手も当然にこのことを知っているにも拘わらず、わざわざ問いただすことに裏に、ヤコブの独特なレトリックがあると見ても間違いではないでしょう。当然知っている事柄を敢えて問い返し、それを信じているのは素晴らしいことですし、立派ですと言います。「その賞賛には少なからず皮肉が込められているともいえる。」[7] 問題はそのあとです。ヤコブは言います。そんなことは悪魔でさえ信じています。このギャップは大きなものです。相手を少し持ち上げておいて、そのあとに、このような事は悪魔でさえ信じていて、さらに不幸な事には、悪魔の方が畏敬の念に恐れおののいていると指摘するのです。ここでは信じ方の誤りが述べられていると考えられます。「読者たちの神は一つの観念であり、彼らの人間像もただの観念に過ぎず、いわば思考が描いた絵に過ぎないと言う。」[8] 暗に言われていることは、あなた方は、神に対して悪魔ほどの恐れも持たずに、唯一の神を信じていると公言しているが、それは観念にすぎないということです。「信ずるという語はここでは非常に広い意味に用いられている。」[9] 悪魔は神の存在は信じて知っているが、「申命記における告白の第二の部分、すなわち『あなたは心を尽くし・・・あなたの神、主を愛しなさい』を実行することができない。」[10] これを聞いたものの衝撃はいかばかりでしょうか。反論したくもなるでしょう。しかし、最初に述べたように、これこそヤコブ独特の対話形式のレトリックであって、特定の人を非難しているわけではないのです。この場合は劇ではないのですが、手紙の読者たちがこの対話に巻き込まれ、自分の置かれた位置を当事者としてではなく、第三者として客観的に見つめることになるのです。それがヤコブの狙いだと言っても過言ではないでしょう。ヤコブの目的は、誤りに陥った信者たちを責めることではなく、彼らが客観的に自分たちの愛の欠けた姿を見つめることだからです。ただし、キリストの救いには触れておらず、「結局、ここでヤコブは、みずからもやはりユダヤ教の枠を抜け出ていないということなのか、それとも彼の関心は、神の存在の事実を告白箇条として承認するだけでことたりるとするような信仰がいかに不十分なものであるかを明示することにのみ注がれているのであろうか」[11]、という問いかけは残ります。
20節で、ついにヤコブは本音を述べます。唯一の神を信じていると公言している人々に、中身がないというのです。「愚かな人」という訳もありますが、ここでは「空しき人」(永井訳)が原語の意味に最も近いのではないでしょうか。なぜなら、ヤコブが呆れているのは、彼らの知的な愚かさではなく、その信仰姿勢が虚栄心に満ち、うぬぼれたものであり、空虚なものだからです。「この空しいという語句には、倫理的な誤りとか、罪という意味さえ込められている。」[12] 愛を忘れているからでしょう。この指摘は、果たしてヤコブの読者だけに向けられたものでしょうか。信仰が名目だけのものになってしまう危険は初代教会だけのものでしょうか。わたしたちは空疎な者ではないのでしょうか。「その信仰は思想や主張であるだけである。」[13] そうした、自己覚知を呼び覚ましながら、ヤコブは理由を述べます。先に述べたような「律法が正しいとしている行為」(愛の実践)を伴わない信仰は死んだものであり、無益で無価値なものになっているからだというのです。「死にたるとは、義とし且つ救うところの生命と力を持たないことをいう。」[14] そういえば、イエス様がローマ軍の百人隊長の信仰を称賛したのも、彼の思索の深さではなく、彼が軍隊の権威に従って行動するように、神の権威に従って愛の実践をする姿勢をはっきりと示したからではないでしょうか。信仰と行動は表裏一体をなすものだと、イエス様は教えられたのです。ただこの場合の行動は、自分勝手な善行ではなく、「律法が正しいとしている行為」なのですから、神の言葉に従う行動であり、それはまさに信仰なのだと言えます。「信仰と行為を分けてしまう人は、信仰を自分の救い中心に考え、神の栄光を中心に考えない人です。」[15] ヤコブの手紙の読者たちの問題は、行動がなかったのではなく、その行動が神の言葉に従うものではなく自分たちの恣意から発生する的外れ(罪の意味)なもの、あるいは愛のないものだったからでしょう。まさに、これは神に結び付かない「空しき人」の姿です。つまり、これは未信者の問題を扱っているのではなく、自称信仰者の問題にメスを入れているのです。現代の教会でも、伝道活動云々の働きや協議は多く見られますが、まず、内部の問題解決を行わなければ、外に出ていっても成果は少ないでしょう。
21節では、死んだ信仰との対比のために、アブラハムの信仰があげられます。イスラエル南部のヘブロンという町に行きますと、そこにアブラハムの墓所がありますが、そこにヘブライ語で「アボテイヌ・アブラハム」(我らの父であるアブラハム)と書かれていて、ユダヤ人にとってアブラハムの存在がいかに大きなものかを感じさせます。ヤコブや手紙の読者にとってもそれは同じでしょう。ですから、アブラハムの名前を出すことは決定的なダメ押しと言えるでしょう。実際に、当時の多くの著者がアブラハムに言及しているそうです。アブラハムは、「律法が正しいとしている行為」によって義と認められたのですが、それは最愛の息子イサクを祭壇にささげるという行いによってでした。これは「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。」(ローマ4:2)、というパウロの言葉と食い違うように見えます。学者の間でも論議される部分です。パウロ神学を堅持したルターなら、まさにここがヤコブ書の誤りだと言うに違いありません。しかし、「パウロは信仰とは義の『宣言』の唯一の条件だと主張し、ヤコブは行いとは義なる身分が『例証』される唯一の方法だと主張するからである。」[16] これは、信仰によって罪人が罪なき者とみなされ(義認)、その後、義なる者が行いによって義化された新しい存在を示す、という二つの側面として考える方法です。それにしても、パウロが個人的なあるいは宗教的な行いによって義とされるのではないと見ているのは確かです。また、旧約聖書を見るとアブラハムの行動は、個人的な見解や願望から出た行為ではなく、むしろ逆に「彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22:2)という耐えがたい神の命令にさえ謙虚に従ったことがわかります。ですから、端的に考えるならば、律法に従うとは、愛の神の御心を信じて従うということと同義語だと思います。ただ、パウロは自分の子供を犠牲として献げたという「行い」を重視することを避けようとしたのだと思います。「ヤコブは義とされるという語を、パウロがそれによって意味しているものとは異なった意味に使用しているのではない。」[17] そして、ヤコブは「ではなかったですか」という否定疑問文の形式を用いて、信仰に基づいた愛の行いを軽視する読者を丁寧に諭しています。
22節では、読者の同意を求めます。あなた方には認識(ブレポー)できるでしょう、と問うのです。感知するといってもいいでしょう。そして、アブラハムの人生において、信仰と彼の様々な行いは共に働いたのだとします。「信仰と行いとは決して切り離すことができないものなのである。」[18] 愛の行いが生じないのは、信仰が単なる観念に陥っているからだと考えても間違いではないでしょう。アブラハムの場合は違いました。そして、それ故にアブラハムの様々な行為によって信仰が完成されたのだとします。完成という言葉はギリシア語のテレイオーであり、円熟させるとか、仕上げる、完全に達成されるなどの意味があります。背景を考えますと、達成するという意味とか終結するという意味が語彙の上では適切でしょう。ゴールとも言えます。同じ言葉はイエス様の言葉として「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)と書かれています。ですから、テレイオー(完全)とはヤコブが勝手につくった造語ではなく、イエス・キリストご自身の命令であり、神がアブラハムに語った言葉と異質ではないのです。まさに究極(テレイオー)の言葉であります。愛の神の世界は、この究極性にあることを改めて感じ、神のみ言葉を矮小化し、私物化、死物化してきたわたしたちの誤りを悟らせるものです。
[1] 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、新教出版社、2004年、162頁
[2] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、122頁
[3] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、105頁
[4] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、88頁
[5] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、59頁
[6] シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、51頁
[7] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、123頁
[8] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、107頁
[9] ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、73頁
[10] P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、182頁
[11] 前掲、シュナイダー、「公同書簡」、51頁
[12] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、90頁
[13] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、110頁
[14] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、74頁
[15] 前掲、蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、163頁
[16] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、125頁
[17] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、74頁
[18] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、130頁