閑話休題

伊藤若冲の絵には主役も脇役もないー絶対愛の福音

伊藤若冲という江戸時代の画家は、以前はあまり知られていない時代がありました。そのころにも、彼の絵には感動した記憶があります。それは、絵の中に繊細な写実以上のものを感じたからです。最近では、彼の絵の研究も進んできていて、「イデアの若冲」という表現があるようです。これはつまり、彼の絵は、事象の単なる緻密な描写ではなく、その中に彼の信念が込められているという事です。その信念とは、森羅万象に対する愛だともいえるでしょう。一例をあげましょう。彼の絵の中に描かれた、何百という紅い南天の実があります。これは単なる背景にすぎません。しかし、若冲は、その一つ一つに愛をこめ、表情をあたえて描いているのです。美しく輝く最盛期の実と、その役割を終え、鳥にも食べてもらえず萎縮していく実も、同等の立場を、享受しているのです。だから、彼の絵には主役も脇役もいないというのが、彼のイデアであり、画家としての生き方のコアなのです。わたしの幼少期の隣近所に画家が住んでいて、後に安井曾太郎賞を受けましたが、その時の絵のモチーフは自分の母親のヌードで、「老いる」というタイトルでした。そこにも、家族との時の経過をいつくしむ愛が現わされていたと思います。聖書には、「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」(ヨハネ第一の手紙4章7節)と書かれています。この愛においては、若人も老人も、日本人も外国人も、仏教徒もキリスト教徒も、善人も悪人も区別されません。無条件の愛です。ですから、主役も脇役もいないということを、無条件の愛として解釈しても良いのではないでしょうか。伊藤若冲の絵に、無条件の愛を見る事が出来るかもしれません。そして、わたしたちも、この広い地球上の小さな小さな一粒の南天の実でありながら、神の絵の中で愛を享受できていることは大きな喜びです。わたしたちが幼く不安だった時も。青春の愛を語り合った時も。傷つき挫折した時も。全ての仕事を終えて、静かに人生を振り返る時も。荼毘に付される時も。すべての場、すべての瞬間、すべての思いを、神は大切に描き出して下さるでしょう。また、わたしたち自身も、万物を慈しみ、拒否する対象を忘れ、無条件の愛=絶対愛に生きる時に、平和に生きる事が出来ます。神が共にいるとはまさにそのことです。

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