今週の説教

自分を見失った時に読む説教

「あなたは誰?」        ヨハネ1:19-28

わたしたちは一体誰でしょうか?あるベテランの牧師に一人の教会員が「先生、わたしが死んだら先生に葬儀をしてもらえますか」と聞きました。牧師は「困ったね。予定日がわからないからね」(笑)と答えたそうです。それは、ある面で自分が誰だかわかっていない、人間というのは遠い将来を約束できるような存在ではないよという示唆ではないでしょうか。逆に自分が判れば人生問題も解決したのと同じです。野球の故野村監督は、試合に勝つ前に、自分を知りなさいと教えました。

人が誰であるかというテーマは深いものです。それは、それを見る人の立場でも変わってくるようです。一つの例は、旧約聖書の列王記と歴代誌です。列王記が見ているダビデ王と歴代誌のダビデ王では違いが見られます。時代的には早い時期に書かれた列王記では、ダビデの最後についてこう書いてあります。「彼がイスラエルの王であった期間は40年、ヘブロンで7年、エルサレムで33年であった」(列王記上2:11)。とてもシンプルです。一方、200年ほど後に書かれた歴代誌では、「彼がイスラエルの王であった期間は40年、ヘブロンで7年、エルサレムで33年であった。彼は高齢に達し、富と栄光に恵まれた人生に満足して死に、彼に代わって息子のソロモンが王となった。」、と書いてあり、ダビデを讃えています。神から見たらダビデも一人の人間に過ぎないという、非常にクールな観点を示すのが列王記です。これは、ダビデは富と栄光に包まれた偉大な人だったと称賛する歴代誌の記者の観点とは違いがあります。わたしたち自身についても同じことが言えはしないでしょうか。わたしたちが誰であるか。それはそれぞれの見方があるでしょう。家族や友人の見方はまた違うでしょう。しかし、神が、わたしたちをどう見ているか、このクールな事実を知ることが大切です。

さて、福音書の記事を見ましょう。19節にヨハネの証しが出ています。当時の宗教の指導者たちは、使いをヨハネのところに送り、「あなたは誰ですか」と尋ねさせました。

ヨハネは率直に答えました。「自分はメシアではない。」おそらく、使いの者たちはホッ胸をなでおろしたでしょう。「アーよかった。まだ神の裁きを受けないで済む。」神を信じない者にとって、神の厳しさは逃げ出したくなるものです。しかし、当時はメシアではなくても、神から使わされた預言者が来るかもしれないと思われていました。特に預言者エリヤの再臨は巷の噂にのぼっていました。ですから、彼らは「エリヤですか」と聞いたわけです。預言者の再来を恐れていたのです。例えば、過去のエリヤは、偽りの宗教的指導者の上に神の怒りの炎を天から降らせ、焼き尽くした有名な人物でした。人々は、預言者を通して神の裁きが下ることを恐れたのでしょう。しかし、ヨハネの答えは「ノー」でした。そこで、最後に彼らはヨハネに尋ねました。「では一体誰ですか。自分では自分のことを誰だと思うのですか。」その時、ヨハネはイザヤ書の言葉を引用して、「自分は荒野の声だ」と言いました。そしてヨハネは、「主の道をまっすぐにせよ」と語ります。これは、イザヤ書40章3節からの引用です。実は、イザヤ書40章は、イスラエルの民族が罪のために神の裁きを受け、バビロンに捕囚されていた時に、罪が赦され、故郷に帰ることができるという解放の預言が語られた部分です。裁きでなく、援助です。

すると、指導者たちから使わされた者たちは、安心しました。預言者でないなら、裁かれないべ、ということでヨハネを批判しました。神からの使者という資格を持たない人間なら、どうして罪の赦しの洗礼を授ける権威があるのか、という批判です。

ヨハネは権威の質問には答えませんでした。悪意に対しては沈黙するという手段もあるわけです。いわば、聖書の世界の黙秘権です。なぜなら、わたしたちは悪に対して、正論で対決して、「そうじゃない」と主張することで無駄な議論に引き込まれ、かえって敗北することがあるからです。ヨハネは神の知恵を持った人でした。彼は、自分の権威の問題には触れないで、自分の後に来る方が本当に権威ある神の使者であると告げました。

しかし、ここでヨハネのあとに、神の権威をもって来られるキリストの役割は、まさしくバビロン捕囚解放のときのように、人々を罪の捕囚、死の苦しみの状態から、解放してくださることだったのです。神の絶対愛の実現です。

聖書の中の人物だけでなく、現代のわたしたちも捕囚されていないでしょうか。胸に手を当て、故野村監督の質問を考えてみましょう。自分の本当の姿は何ですか。捕囚状態ではないでしょうか。不自由ではないでしょうか。何かに依存してはいないでしょうか。そこで、自分は、イザヤ書にある「捕らわれ人、つながれている人」だとヒラメクのです。もちろん、残念ながら、ヒラメキが弱い人もいます。重症だからです(笑)。しかし、神には不可能はありません。マークトウェインが言ったように、「神は愚かな者、酒におぼれる者の面倒を見て下さる」、無条件の愛、絶対愛の神だからです。それは、旧約時代には発見されていませんでした。発見者は、神の子イエス・キリストでした。わたしたちを様々な苦悩から解放し、救いと喜びを与えるために、キリストがお生まれになったわけです。これが、もうすぐやってくるクリスマスの意味です。

くどいようですが、わたしたちは誰でしょうか。この説教を偶然読んでおられるあなたは誰ですか。聖書によれば、罪人です。同時に神の絶対愛をそそがれた人です。神はあなたを、無条件に、絶対愛の愛をもって愛しておられる。

かつて、ルターは、「ヨハネの長い人差し指」という題で説教したことがあるそうです。なぜなら神の救いを示す証人の人差し指は長いからです。イエス様は伝道の初めに「神がわたしを遣わされたのは、捕らわれた人を解放し、自由にし、神の恵みを告げるためである」と説教しています。教会こそ、この絶対愛に気付き、この愛を信じて受け取る場所です。パウロは手紙でそれを知らせました、わたしはネットのブログでそれを知らせています。あなたは誰なのか。それは業績や、学歴や、周囲の評価ではなく、無条件に神の絶対愛を受けている、死にかけた人(罪人)なのです。

自分では自分を絶対解放できません。解放されるのです。しばらくは長く鎖につながれた象が、鎖がなくなっても、自由を自覚せず、遠くに行けないのと同じ状況もあるでしょう。しかし、神の時がくれば、喜ぶ時も、悲しむときも、人生は自分のものではなく、神の与える絶対愛のプレゼントだとわかり、全集中の呼吸が出来なくても、目の前の小さな出来事を感謝できるようになるでしょう。実は、それが神が見て下さるクールなあなただからです。ヨハネはそれを知っていました。

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