聖書研究

信仰を心の問題に限定する偽善を指摘するヤコブ

ヤコブの手紙2章23節 -26節 

23節でヤコブは、アブラハムの信仰の件についての結論に到達します。それはつまり、聖書の言葉が成就したということです。「信仰がその究極の形を、実践、わざによって手にするという23節の思想は特別なものである。」[1] この成就という言葉は、プレローマという特殊な言葉であり、それは満ちるとか、聖書の預言が実現したという意味で用いられます。新約聖書の中でも、「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」(ローマ4:21)、「わたしたちの間で実現した事柄について」(ルカ1:1)、などの表現が見られます。そこでわかるのは、ユダヤ人が神の歴史を時系列的(クロノス)に見ながら、かつ神の救済史(カイロス)の実現を待ち望んでいたことです。それはまさに、ヘブライ書にある「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)、ということではないでしょうか。ただし、「新改訳が『実現した』とヤコブが言うとき、それは何を意味したのか。確かに創世記15:6は預言ではない。」[2] ですから、これは預言の成就ではないけれども、アブラハムと神との関係が、最初に信仰によって正しいものとされ(義)、後に我が子を献げるという従順な行いによってプレローマ、つまり現実のものとなったということでしょう。

アブラハムは神を信じて義とされたと、創世記15:6を引用してヤコブは強調します。「創世記15:6によってヤコブは、アブラハムの人生において信仰と行いが共に働いたことを示そうとしている。」[3] 前節では数々の行いによって信仰が完成され、その信仰によってアブラハムは義とされたとあるのですから、信仰と行いを分離することはできません。ですから、救いには信仰と行いが同じように関係しているということです。「ヤコブが意味していることは、アブラハムの信仰の完成、仕上げについてであって、信仰の始まりについてではありません。」[4] ですから、ヤコブは行いによって義とされたとは言いません。あくまで、信仰による義なのです。ここで「義とされる」ということですが、ロギゾマイというギリシア語が用いられており、それはもともと勘定に入れて計算するという意味ですから、実際にはその人に義はないのに、神がその人を義の勘定にいれてくださるということを示します。ですから、質的変化を遂げて義となるのではなく、相変わらず罪人であっても、神が義の勘定、算定にいれてくださるという考えです。「こうなると義に算定されることは義と認められることとは別なのである。算定ということは何か予備的な感じである。」[5] 努力して良い人間になったら神の義の認定がされるよ、ということではないのです。100パーセント神の憐みを信じる信仰によって、義と認定されるのです。ですから、そこから逆にアブラハムについて考えてみると、アブラハムの行いには良い点も悪い点もあったが、最終的に彼が信仰によってすべてを神に委ねたがゆえに、義人の勘定に入れて頂いた、ということになります。であるならば、後出のわたしたちでさえ、行いにおいては不十分ながら、神の憐みに対する信仰において、完全に義人として認定していただけるということではないでしょうか。「アブラハムは死ぬ前に既に神の友だったのである。」[6] そして、アブラハムと同じように、わたしたちも神の友と呼ばれる可能性があるのです。「み言葉の実践者は神の友と呼ばれる。」[7] ちなみに、「神の友」という言葉は旧約聖書の歴代誌下20:7にも見られます。ユダヤ教ではアブラハムが神の友だったというのは定説でした。また、ユダヤ人として神を自分たちと同じ目線でとらえるえることができたヤコブは一体どんな人物だったのでしょうか。ある面では讃美歌の一句に「慈しみ深き友なるイエスは」とあるように、神に愛され神を愛する友というのが信仰者であるという認識を持っていた人だと思われます。そこには、神を威圧的な裁き主として恐れる姿はありません。愛は恐れを取り除くからでしょう。

次に、24節でヤコブは話を展開させます。今度は話をアブラハムから一般的な「人」に移し、アブラハムが信仰によって義とみなされたというのと同様に、人は様々な行いによって義とされることを、あなた方は見ていますと書かれています。「業ぬきの信仰が義認に至るという主張は間違っている。」[8] この場合の「見ています」という表現は理解が難しい部分ですが、「分かるように」とも訳されています。それに加えて、信仰によってだけではないと強調されています。信仰が生み出す行いは信仰との両輪をなすのであって、片方「だけ」で存在するのは不可能です。この点は、パウロの福音とどのように一致するのでしょうか。「この宣言をもって、われわれはヤコブとパウロの間における緊張関係の頂点にたどり着く。」[9] パウロは、ローマ書3:28で、社会規範としての律法の行いではなく信仰によって義とされると言ったのではないでしょうか。確かにそうです。しかし、子細に見てみると、パウロが強調しているのは当時のユダヤ教徒が律法の尊守によって義とされると説いていたことに対する反論でした。一方、ヤコブが強調している「行い」は、一貫して神のみ言葉に従う純正な律法としての愛の行いです。「筆者は善きユダヤ的なものを差し向ける。人間は彼が行うものであり、行う者がその人間である、と。そしてそれ以外はすべて全くの思弁であり、幻想であるとみなす。」[10] パウロも愛の行いを否定してはいません。むしろ時には信仰よりも重要視しています。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(第一コリント13:13)ヤコブが、信仰のほかに、旧態依然とした社会規範としての律法の行いによる救いを提唱しているとは考えられません。また、ヤコブが語る口先だけの「信仰」とパウロが語るイエス・キリストを主として告白する信仰とは同じものではありません。「この信仰は愛と律法とは関わりがなく、元来そういうものと疎遠なのである。」[11] それにしても理解の難しい部分です。「けれども、ここで大切なのは、義認を信者に義なる立場を与える最初の段階とパウロがとらえていたことを忘れないことである。」[12] そして、このパウロが説いた第一段階が完成して、神と人との関係が正しくされた(義認)なら、その信仰による従順の結果として愛の行いが生まれてこないはずがない、というのがヤコブの主張でしょう。ヤコブは信仰の完成を述べているわけです。「ルター自身は、もし別の時代に生きていたならば、ヤコブが語るメッセージをもっと強調したのではないかと思われる。」[13] ですから、わたしたちは文献が書かれた時代や社会的条件を考えて内容を解釈していく必要があるのです。聖書研究が重要なのもそのためです。ヤコブが語りかけていた人々と、パウロの語りかけた人々には違った問題があったわけです。それが、信仰と行いの強調点の違いとして現れているということは、ほぼ間違いないでしょう。

25節では、その行いの一例として、遊女ラハブも神の使者を迎え、別の道に送って逃がしたことによって、義と認められたとします。「アブラハムに言及した後、彼は女性を持ち出している。というのは、彼は4章4節で男女に呼びかけているからである。」[14] ユダヤ人男性だけでなく、異邦人の女性、しかも遊女という低い身分のものさえヤコブは心にかけているのです。ラハブは遊女でしたから、一般的な行いの点からいえば落第生です。これはヨシュア記の記事であって、ユダヤ人なら誰でも知っている話です。ただ、どうしてヤコブはラハブの行為を模範的な行いの一例としてあげたのでしょうか。ユダヤ人の間では、「アブラハムとラハブの両者が『信仰ともてなし』のゆえにたたえられている」[15]、という見方もあります。ヨシュアが率いるイスラエル軍がラハブの住む要塞都市エリコを陥落しようとしたときに、イスラエル軍から出された二名の斥候を助けたのが、異邦人の女性ラハブでした。しかし、この場合、斥候を助けた行いが称賛されているのでしょうか。そうでもないようです。ヨシュア記を見ますと、ラハブの言葉として「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」(ヨシュア記2:11)、と書かれています。つまり、命がけでイスラエルの斥候を助けた行いは、彼女の神への信仰に基づいてなされたわけです。ここが称賛されているのです。さらに言えば、信仰における言行一致の例として、ラハブの事をヤコブは解釈したのでしょう。ラハブが行いによって義認されたとは、旧約聖書には書いてありません。ただ、このラハブの場合、義と認められるということについては、23節にあった「義の勘定に入れて計算される」(ロギゾマイ)は用いられていません。ですから、23節と25節では、義認に関するヤコブの意識は同じではないと言えるでしょう。それにしても、ヤコブが言及するだけでなく、この遊女ラハブはボアズの母としてイエス様の系図(マタイ1:5)にも入れられている重要人物なのです。聖書が職業や階級で人を差別していない一例と言えます。なぜならば、聖書はすべての被造物に対する神の愛を中心として書かれているからです。

26節の説明は興味深いものです。ヤコブは霊のない体は死んだものだとします。同様に、愛の行いのない信仰も死んだものだとします。「それだからと言って、活ける信仰は行為からその生命の源泉を引き出してくるということにはならないのである。」[16] つまり、もともと一体であるものが、分離された状態で、片方だけが存在することはありえないとヤコブは教えるのです。「宗教は実践の事柄、すなわち神の意思への服従である。」[17] これは当然です。ヤコブ書を藁の書であると批判したルターでさえ、ローマ書の註解で次のように語っています。「そのような良い行いがその人のうちに見られないならば、そのような人は信仰者とは言えない。」「それにひきかえ、わたしたち日本人を見ると、日本的信仰では、あくまで『信心』であって、信仰は心の問題に集中します。」[18] 日本でのキリスト教伝道が伸び悩む理由の一つにこうした行動面の弱さもあるのではないでしょうか。ある学者は、定期的に礼拝に参加するという「行い」さえも空洞化されてしまう場合があると指摘しています。そのような、行いを欠いた「信仰」は、ヤコブの時代にも見られたことでした。ですから、「この結論は、マタイ5:16に符号し、黄金律を要約する善い行いの肯定的評価と、隣人、特に困窮する者に対する愛における御心の実践、という面を背景とする」[19]、のであって、実に愛において働く信仰の完成を求めるものなのです。

[1] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、110頁

[2] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、130頁

[3] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、94頁

[4] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、63頁

[5] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、111頁

[6]  ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、80頁

[7] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、94頁

[8]  シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、53頁

[9] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、132頁

[10] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、112頁

[11] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、112頁

[12] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、133頁

[13] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、134頁

[14] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、82頁

[15] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、135頁

[16] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、82頁

[17]  P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、184頁

[18] 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、新教出版社、2004年、164頁

[19] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、98頁

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