暗い人生路を明るくしたい時に読む説教
「あなたを照らす光」 ヨハネ1:1-14
もうすぐクリスマスがやってきますが、クリスマスは光の祭典です。わたしたちはろうそくの光を灯してそのことを象徴します。ツリーのイルミネーションはルターが考案したものだそうです。西方教会は12月25日をイエス・キリストの誕生日として祝ってきましたが、歴史上はイエス様がいつお生まれになったのか、わかってはいません。ちなみに、東方教会では1月6日がクリスマスです。12月25日をイエスの誕生日として祝うようになったのは、4世紀頃からで、当時行われていた冬至の祭りを、教会がキリストの誕生日に制定してからです。冬至は夜が一番長い時であり、闇が一番深まる時です。人生自体も暗く感じるかもしれません。しかしまた、それ以上に闇は深まらず次第に光が長くなる時でもあります。人々はこの冬至の日こそ、闇から光に転ずる日であり、光である救い主の誕生日に最もふさわしい時だと考えるようになりました。
闇から光への転換は必ずある。
わたしたちは暗闇の中でこの言を聞き、そこに希望と慰めの光を見ます。ただ、人間ですから、時にはどうしていいか分からなくなったり、空しさを感じることもあります。そしてその心の空しさを、この世の物質的なもので満たそうとします。けれども、なかなか満たされないのです。この世のものに頼って生きていこうとしても、時には裏切られてしまうこともあります。この世のものは絶えず変わっていくわけです。そしてどちらに進んでいけばいいのか、自分が今、どのような道を歩んでいるのか、そして自分が今、どこに向かって歩んでいるのか分からなくなってしまうこともあります。今日の聖書の箇所では、それを「暗闇」と言っています。しかし私たち人間が、そんな暗い生き方をするために、神様は私たちを創ったのではないのです。確かに、10節に「世は言葉を認めなかった」とあるように、光に背を向けることもあるわたしたちです。しかしそれでもなお、神様は、そんな生き方をしている私たち人間のことをも、とても愛しておられます。放蕩息子が帰るのを待つ愛情深い親のたとえによって、イエス様が神の愛を説いたのもそれです。
神様の絶対愛は永遠に変わらない。
そして神様は、そのような闇の中を歩いている人間に「光」を与えよう、そう思われたのです。今日の聖書の箇所にも、9節の所では「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と書いてあります。人生の歩みの中で、私たちは道を間違えることがあるかもしれません。道に迷うこともあるでしょう。いまは平気でも希望を失うこともあるでしょう。しかし、心が暗くなってしまっていたら、暗くなった私たちの心に希望の光を点火するために、神様はイエス様をわたしたちのハートの中に誕生させてくださるのです。聖書は,クリスマスの出来事、つまり救い主の誕生を通して、「救いの出来事があなたに起こるよ」、あなたが立派だからではなく、人間の業には無関係に、あなたの存在そのものがかけがえのないものだから、神は無条件にあなたを愛していると何度も何度も告げるのです。
神様にとってあなたは特別な存在です。
それはわたしたちの出来事ではなく、神の出来事だといえます。人間の罪は「わたし、わたし」の連続に明らかです。それが「あなた、あなた」と変わるところに愛があります。これは恋愛経験のある人にはわかりますね。どこにいても、何をしていても、いとしい「あなた」のことが頭から離れないのです。ただ、恋愛はまだ条件付きの人間的な愛です。移り変わるものです。しかし、神の導きによって「わたしではなく、神の愛」を知るということが起こります。これは、ひそかな奇跡であるともいえるでしょう。その出来事こそがキリストの誕生であり、伝道であり、贖いの犠牲の十字架であり、弟子たちに真の勇気を与えた復活なのです。イエス様こそ、またイエス様の生涯こそ神の出来事です。それであるからこそ、この神の愛の啓示の出来事は、私たちの思いや状態を遙かに超えたものであり、どんなに闇があっても、その圧倒的な神の光がわたしたちを内側から照らし、外側から包むのです。
昔の日本でも、暗闇からの夜明けを迎えていた時がありました。それはまたとても暗いときでもありました。明治維新です。徳川政権を守ろうとする新撰組などの勢力と、薩摩、長州などの勤王派などが拮抗し激突していました。その時代に、坂本直寛(なおひろ)という侍がいました。坂本竜馬の姉、千鶴の息子です。彼は、32歳の時に、高知教会で洗礼を受けました。ただ、信仰心が特別に強かったわけでもありません。本人も福音的に信じたのではなく、あのころは理論的に信じていた、と回顧しています。頭の中だけの信仰でした。そして最初は人前でお祈りすることもできなかったそうです。その坂本直寛が変わりました。34歳で高知県会議員に当選しました。坂本直寛は当時の明治政府の官僚主義を厳しく批判しました。すると、政府から演説禁止命令がでました。それでも政府批判をやめないで政治活動を続けた坂本直寛は牢屋に入れられ2年6か月過ごしました。当時の罪人の処遇は極めて残酷で、彼はとてもつらかったそうです。それまでは、理論的に過ぎない坂本直寛の信仰でしたが、このころから神様からくる心の平安を体験するようになりました。46歳になって、牧師になった坂本直寛は開拓民として一家で北海道に移住しました。そこで坂本直寛が力を入れたのは監獄伝道でした。劣悪な監獄を知っていた坂本直寛はそこで拘束されている人々に、闇を照らすイエス・キリストの福音を伝えたのです。
神様の光は最悪の闇の底まで届く。
ある時は、千人もの囚人の前で、涙ながらに、十字架にかかったキリストの愛を語ったところ、囚人はもちろんのこと鬼のような看守も涙を流して悔い改めたそうです。この、坂本直寛の信仰の友が、三浦綾子さんの小説「塩狩峠」のモデルになった長野政雄という人で、暴走する列車を止めるために命をささげた人でした。最初は信仰も弱かった坂本直寛でしたが、彼の能力ではなく、彼に現れた神様からの光は多くの光を誕生させました。今日洗礼を受ける7名の方々も、この神様の愛の光を受けた方々です。これはまさに神の出来事でして、わたしたちの思いや状態を遙かに超えたものであり、その圧倒的な神様の光があなたを包む、ということの実例です。
この神様の一人子、イエス・キリストこそ、私たちの暗い足元を照らしてくれる光です。わたしたちは、間違った方向に進むことがあるでしょう。苦しむこともあるでしょう。しかし、私たちを愛する救い主は、必ず行く道を照らしてくれます。またイエス様は私たちの心が冷えてしまい、心が凍えてしまいそうな時、私たちの心を暖め、あったかい気持ちにしてくれます。そして私たちの信仰を育て、成長させ、実を結ぶことができるようにしてくださるのです。そのような力のある光がやってきたのです。最初は弱い信仰だった坂本直寛も実感した神様の光です。神様は、このようなわたしたちを照らす「光」として、イエス様を私たちにプレゼントしてくださり、イエス様を救い主として心の中に受け入れる人の人生を闇から光に移してくださるのです。わたしたちの生涯もまた神様の光の出来事なのです。これこそが、クリスマスが光の祭典である意味です。感謝です。