今週の説教

本当のクリスマスの意味を知りたい時に読む説教

「試練のクリスマス序曲」        マタイ3:1-12

序曲というのは、もともと歌劇などでまだ聴衆がざわめいているときに、聴衆の注意を引き付けるためのものだったようです。裁判所などで開廷の合図として木槌でたたくのも同じです。ざわめいている人たちの注意を促すわけです。その面で、今日の聖書の日課は、クリスマスシーズンに入る気持ちを整える序曲の部分と言えるでしょう。

イエス様の福音伝道の働きの前に、その開始の序曲のように、洗礼者ヨハネの働きがありました。ヨハネという名前は特に珍しくなく、「主は恵み深い」というヘブライ語の名前でした。そこで他のヨハネと区別するために、彼は洗礼者ヨハネと呼ばれています。彼は伝統的な預言者と同じように、人々に悔い改めを説きました。悔い改めとは、反省や後悔ではなく、自分の考えが神の方に方向転換することです。わたしたちが、今日もこうして礼拝できていることは、神の方に方向転換できていることであって、大きな恵みと言えます。ですから、礼拝も悔い改めの一つと考えてよいでしょう。

洗礼者ヨハネの時代には、確かに礼拝するユダヤ人は多かったと思いますが、その心は神に向いておらず、人間の自慢や傲慢のための手段になる場合もあったようです。これは宗教が習慣化すると起こりやすいことです。現在、わたしたちの心はどこを向いているでしょうか。礼拝が習慣化されると、神の方に向いてない場合もあるでしょう。

ざわめいている心を静めて注意を惹く序曲のように、あるいは開廷知らせるダダーンという音のように、洗礼者ヨハネは、神に生活の向きを変えるべきだ、悔い改めなさい。と厳しい言葉で語りました。彼は生活面でも厳しい生き方をしていました。イナゴと野生の蜂蜜を食料としていて、人里離れたところで神を求めていたわけです。彼の登場は、昔からあったイザヤの預言の実現でした。彼は、王なるキリストの道を準備する、序曲のような人でした。洗礼者ヨハネはイエス様が処刑される前に処刑されています。

洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼、神の方向に転換する洗礼を与えていました。ヨハネは彼らに対しては洗礼の前に悔い改めの実を結べと要求しました。これは、道徳的行為を示せという意味です。彼らの問題は偽善であり、言っていることと行っていることが食い違っていたからです。これは、誰にでも起こり得る事です。犯罪を取り締まるべき警察官が、犯罪に加担してしまうのと同じです。しかし、これも序曲であって、あとから来る本命、つまり偉大な救い主イエス・キリストの霊的な洗礼の準備の為でした。洗礼者ヨハネの水の洗礼のあとの、イエス・キリストによる洗礼は、霊の洗礼でした。これは、理解しにくいことです。なにせ、霊とは、空気とか風にたとえられる表現ですから。あっても見えない存在です。であるとすると、霊による洗礼は、あってもないのと同じ洗礼という事になります。

ただ、11節にある「聖霊と火」の洗礼と同じです。火ならどうにか肉眼でも確認できます。では、一体聖書は何を言いたいのでしょうか。つまり、霊が到来する前の状態は、律法の状態です。律法が支配する時には、悪は悪として、排除される時代です。善悪が、白黒状態で見えることですね。ただ、霊の時代は違います。イザヤ書の日課にあるように、霊の充満がある時には、悪を排除する必要がありません。白黒状態の終わりです。「狼と子羊」、「豹と子山羊」、「幼子とマムシ」これらが共存して平和なのです。

これはスゴイ預言だと思います。プラスとマイナスの間の衝突の終わりです。善人と悪人の差別の終焉です。律法の世界なら、まず、オオカミや豹、そしてマムシを除去しようということになります。日本では、デング熱を媒介する蚊が出没しただけで大騒ぎでしたが、フィリピンなどでは普通の風土病にすぎません。コロナが蔓延する現在では、誰もそのことをスッカリ忘れています。そして、もっと恐ろしいバイオハザードが起こる時に、人々はコロナのことをコロナっと忘れているでしょう(笑)。それが人間性です。

こうした問題が発生すると、わたしたちはそれをどうにか除去しよう、悪の根を断とうとするのです。おそらく、洗礼者ヨハネも神の律法に立って、「悔い改めよ」と叫び、人間の心から、様々な悪を除去しようとしていたのでしょう。このヨハネのワクチンに効果はあったのでしょうか。イエス様も洗礼者ヨハネから洗礼を受けたということは、一時は洗礼者ヨハネの弟子であったわけでしょう。しかし、イエス様には神様から直接受けた霊的な賜物があり、霊的な人でした。白黒をハッキリさせる律法の大切さを十分に知ってはいましたが、それは序曲にすぎず、中心テーマは福音であり、心の内外において、「狼と子羊」、「豹と子山羊」、「幼子とマムシ」これらが共存していく平和があることであると伝えたのです。

閑話休題。これはまさに戦争と平和ですよ。イスラエルに住んでいた時に、テルアビブの海岸に住む人から、あの「七日戦争」でイスラエルとエジプトがドンパチやっていた時にも、人々はテルアビブの地中海ビーチで休暇を楽しんでいたというのです。これも戦争と平和の共存状態と言えるのではないでしょうか。

 

マイナスとプラスが反発しない時代が来る。

 

ですから、クリスマスの平和は悪弊が除去される事無く、平和に収まることなのです。実例を挙げましょう。サボテンにトゲがあることは誰でも知っています。ただ、サボテンに花が咲いて小さな実がなることを知っている人は多くはありません。さらに、この実を砂の中に蒔いて水をかけると双葉の芽が出てくることを知っている人はさらに少ないでしょう。ですから、サボテンも元来はトゲがなかったと考えていいでしょう。そして、ある修道院で、心優しい神父さんが毎日サボテンに語りかけたそうです。「サボテン君、サボテン君、君はここで愛されて可愛がられているんだよ。砂漠にいた時のようにトゲで武装して自分を守る必要はないんだ。」すると、やがてサボテンが神父さんの言葉が分かったかのように、トゲが退化してなくなったそうです(笑)。トゲという悪を抜き取ることなく自然に問題が解決したわけです。この話が本当かどうかは別として、象徴的な話だと思います。

トゲがなくなるというのは聖霊の働きにたとえていいでしょう。洗礼者ヨハネの見える洗礼は、序曲であり、物事の開始としては大切でしたが、序曲を聞いてそのあとの本曲を聞かないのならば、部分的な満足しかありません。

 

多くのクリスチャンは福音の主題部分を聞いていない。

 

徒然草52段に、「石清水八幡宮のお参り」という話があります。長年、石清水八幡宮をお参りしたいと思っていた仁和寺の年老いた坊さんがついに行ってきたわけです。そして同僚に、素晴らしかったが、多くの人が奥の山の方に登って行った、自分はお参りができたから山に登らないで帰ってきたと言いました。つまり、彼は山の上にある本堂は見ないで入り口だけ見て、つまり序曲だけで満足して帰ってしまったのです。わたしたちの洗礼も同じです、水による洗礼は序曲なのです。霊の洗礼を受けないならば不十分です。

 

水の洗礼を受けただけで、満足している人がいる。

 

これが不十分である証拠は、問題やストレスを除去しようともがく態度が残っていることです。たとえば、コロナに対する対応はどうでしょうか。ルーテル教会でも、ある時に本部から「コロナ撲滅の祈りをしましょう」というメールが送られてきて、その信仰の浅薄さに驚いたことがあります。聖書を読みますと、使徒言行録の中でも、イエス・キリストの「霊の洗礼」を受けたかどうかが問題になっています。

 

水だけでは不十分です。

 

ペトロの言葉ですが、「そのとき、わたしは『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思いだしました。」(使徒言行録11:16)、と書かれています。救いに至るというのは、序曲の状態にとどまるのではなく、やがて聖霊を受けることによって完成していくのです。

弟子たちもこの「聖霊と火」の洗礼を受けるまでは、序曲の段階で迫害や死を恐れてもがいていました。しかし、ペンテコステという火の聖霊降臨をとおして、何事にも揺らぐことのない真の平和が心に生まれました。

クリスマスというのは、弟子たちに、火(試練)と聖霊(慰め)の洗礼を与えるためにイエス様はお生まれになったという事を示す時です。洗礼者ヨハネの道は試練と犠牲の道でしたが、それは神の救いの計画という大協奏曲の大切な序曲だったのです。わたしたちが受ける、身体的試練、心理的試練、財政的試練、人間関係の試練、職場や学校の試練、愛する者との離別の試練、これらのマイナス事項は救いとは決して無関係ではありません。日本の仏教でさえ、親鸞や日蓮は、激しい迫害の中で救いの確信に至っています。だから、内村鑑三は日蓮を尊敬したのです。最後に、「信仰による平和と喜びで満たされる」(ローマ15:13)、ということが救いの完成です。今年の試練のクリスマスに、この救いの賜物を豊かに受け、感謝しましょう。

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