コロナ下のアメリカの病院で患者にチャプレンとして仕える関野牧師
インターネットのニュースを見ていたら、ルーテル教会の後輩にあたる関野牧師がアメリカの病院のコロナ病棟で、チャプレンとして熱心に奉仕している記事を見つけました。この活動は、わたしが若いころにルーテルの神学校に行ったミネアポリス市にある、アボット・ノースウェスタン病院という場所で行われています。室橋裕和という人の記事です。チャプレンの仕事は外国でな一般的に受け入れられていますが、日本ではまだ知られていません。チャプレンは、学校や、軍隊のなかでの心のケア、そして病院に入院している方々のメンタル・ケアやソーシアル・サービス(福祉ケア)などを行うものです。日本の病院ならお坊さんがやってもいいのですが、どうしてもお葬式のイメージが強いので敬遠されてしまうそうです。しかし、人間は弱いものです。死んでから葬儀に宗教が必要なのはもちろんですが、死ぬ前のターミナルケア(末期ケア)にこそ宗教の安らぎが必要だと思います。お医者さんでも末期患者に慰めを与え励ましてくれる先生もいますが、心を尽くして治療した患者を喪うことは医者の側にも大きな精神的ストレスを与えるそうです。わたしもアメリカにいた時に、アラスカの病院でチャプレンの仕事をしたことがあります。その時こんなことを聞いたことがあります。アメリカでは、医者や看護師の間では患者を本名で呼ばず、病名で呼ぶことが多いそうです。例えば、「マイケル・スミス」さんというかわりに、「南病棟のすい臓がん3期の患者」さんと呼ぶわけです。その理由は、医師や看護師が患者を助けようと強く感情移入してしまうと、患者の死後に精神を病むことが多いので、それを防ぐためだそうです。ですから、チャプレンの仕事は多岐にわたります。貧しい患者の入院費用の相談や行政機関への連絡、そして患者のケア、患者の家族のケア、医師・看護師へのケアなどです。わたしがアラスカに住んでいた時は、朝10時から午後3時くらいまで、教会でアメリカ人の主任牧師と働き、夕方から夜の12時までアンカレジ市内の大病院でチャプレンとして働きました。若かったからできたのですが、かなりハードな仕事でした。深夜にアラスカの雪原に車を走らせてアパートに帰ってくるときは心身ともにボロボロでした。関野牧師のチャプレンの仕事も同様に厳しいと思います。しかし、インターネット記事を読めばわかりますが、関野牧師の場合にはコロナ病棟という非常に危険度の高い状況で働いているわけです。チャプレンの仕事を知っているがゆえにスゴイとしか言いようがありません。ただ、このように献身的な若い世代が、ルーテル教会の中に生まれてきている事を嬉しく思います。最後ですが、ルーテル教会の始まりとなった宗教改革をおこしたルター(ルーテル)の時代にも恐ろしい疫病がヨーロッパを襲いました。宗教的に見てルターたち宗教改革者がこれをどのように考えたのかを記す文献がありますので、皆さんの参考のために添付しておきます。
神戸改革派神学校・吉田隆校長「ウイルス禍についての神学的考察」
2.宗教改革期の例
14世紀の中頃、アジアからヨーロッパ全土を襲った黒死病(ペスト)は、ヨーロッパの全人口の4分の1から3分の1を死に至らしめたと言われています。その後も散発的に流行を繰り返したこの病は、1527年の夏、マルティン・ルターがいたヴィッテンベルクをも襲いました。時のザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒはルターたちに避難を命じますが、ルターはこれを拒否して町の病人や教会員たちをケアするために残ります。しかし、他の町をも襲った災禍の中で、キリスト者が災禍を避けて逃れることは是か非かとの議論が起こり、ルターにアドバイスを求めることになりました。これに応えて書いた公開書簡が「死の災禍から逃れるべきか」という文章です(英訳“Whether One May Flee From A Deadly Plague”は、オンラインで読める)。
この手紙の要点は、以下のとおりです。
(1)困難な時こそ神の召しに忠実であれ
ルターはまず牧師たち聖職者に対して、命の危険にさらされている時こそ、聖職者たちは安易に持ち場を離れるべきではないと戒めます。
説教者や牧師など、霊的な奉仕に関わる人々は、死の危険にあっても堅く留まらねばならない。私たちには、キリストからの明白な御命令があるからだ。「良い羊飼いは羊のために命を捨てるが、雇い人は狼が来るのを見ると逃げる」(ヨハネ10:11)と。人々が死んで行く時に最も必要とするのは、御言葉と礼典によって強め慰め、信仰によって死に打ち勝たせる霊的奉仕だからである。
牧師だけではありません。行政官などの公務員や医療関係者、主人と召使い、子を持つ両親に至るまで、各々が主から与えられた(他者に仕えるという)召しを全うせねばならないと、ルターは述べます。さらに、身寄りのない子どもたちや知人・友人に至るまで、およそ病の苦しみにある隣人をケアしなければならない。なぜなら、主が「私が病の時に、あなたは訪ねてくれなかった…」(マタイ25:41-46)と仰せになったからである、と。実際、困難な中にある隣人を助けないのは殺人と同じだ(Ⅰヨハネ3:15)とさえ言います。
つまり、このような災禍が神から与えられたのは、私たちの罪を罰するのみならず、神への信仰と隣人愛とが試みられるためである。悪魔は、私たちが恐れと不安にさいなまれキリストを忘れるようにと仕向ける。しかし「お前の牙に毒があったとしても、キリストにはさらに大いなる(福音という)薬がある…。悪魔よ、去れ! キリストはここにおられ、ここに主に仕える僕がいる。キリストこそ、崇められますように! アーメン」と、ルターは説教します(“神はわがやぐら”は、この時期に作られたとも言われます)。
(2)不必要なリスクを避けよ
他方において、ルターは、死の危険や災禍に対してあまりに拙速かつ向う見ずな危険を冒すことの過ちについても述べています。それは神を信頼することではなく、試みることであると。むしろ理性と医学的知見を用いて、次のように考えなさいと諭します。
私はまず神がお守りくださるようにと祈る。そうして後、私は消毒をし、空気を入れ替え、薬を用意し、それを用いる。行く必要のない場所や人を避けて、自ら感染したり他者に移したりしないようにする。私の不注意で、彼らの死を招かないためである…。しかし、もし隣人が私を必要とするならば、私はどの場所も人も避けることなく、喜んで赴く。
このように考えることこそ、神を恐れる信仰の在り方であると。ただし、実際の現場においてどのように判断し行動するかは、各自が考えるべきこととしています。
(3)牧会的事項
何版も版を重ねたこの手紙に、ルターは後に、いくつかの牧会的・実際的事柄について書き加えています。
第一に、生と死について御言葉からよりよく学ぶために、信徒が教会に出席し説教を聞くように励ますこと。第二に、各自が常に死に備えること。第三に、病人が牧師やチャプレンの訪問を願う時には、なるべく早い段階ですること。第四に、病死した人をどこに葬るかは、医者や経験ある人々の意見を大切にすること(ルター個人は町外れが良いと考えるが)。最後に、サタンによる“霊的な疫病”との戦いに勝利できるように祈ってほしいということです。
*なお、カルヴァンによる病者への訪問についての指示や、疫病で家族・知人を失った人への慰めの手紙は、『牧会者カルヴァン~教えと祈りと励ましの言葉』(新教出版社)367頁以下を参照。