今週の説教

春を待ち望むときに読む説教

「春の小川はさらさらいくよ」     ルカ3:15-22

「春の小川はさらさらいくよ、岸のすみれやレンゲの花に、姿やさしく色美しく、咲けよ咲けよと、ささやきながら。」この歌の作詞者は、長野県出身の高野辰之です。作曲は鳥取県出身の岡野貞一で明治時代のクリスチャンです。この人は高野辰之と共に、「もみじ」、「おぼろ月夜」、「故郷」、「桃太郎」などの曲を作っています。宣教師アダムズに出会って音楽に目覚め、後には東京芸大の教授にまでなっています。

さて今回の日課は主の洗礼日に関してであり、イエス様がヨハネから洗礼を受けたことを学び、洗礼の意味を考える日です。クリスマス・シーズンの後には、教会暦で必ずこの箇所から学びます。春の小川ではないですけど、昔の時代には、川で洗礼を授けたけた事もあったようです。現在でも、イスラエルのヨルダン川上流では世界各地の人がきて、川で洗礼式を受けています。それは、イエス様がヨルダン川で洗礼をうけたことに起因しているのです。それにしても、洗礼とは罪の清めのためのものなのに、罪のない神の子イエス・キリストが洗礼を受けたのは何故でしょうか。

旧約聖書のイザヤ書42章には関連記事がでており、そこには「主の僕の召命」という題がついています。この場合、主とは神さまです。僕(しもべ)とは、イエス様の事ですね。僕というのは、奴隷とか奴婢のように自分の持ちものを持たず、神に仕える者のことです。つまり、イエス様は、自分がああしたい、こうしたいと思うのを第一にせず、神の思いを第一にしたので僕なのです。ですから、イエス様の口癖は、「父なる神様の御心」だったのです。洗礼も、「父なる神様の御心」だったのです。イエス様が個人的に望んだわけではありません。マタイ福音書の並行記事を見ますと、イエス様は、ヨハネが洗礼を与えることに同意しなかったので、「今は正しい事を行うべきだ」と要求しています。この「正しいこと」は、原語では義という意味で、やはり「父なる神様の御心」の事です。

ちなみに、人間に罪があるということは、犯罪のことではありません。犯罪は、罪の一つの結果に過ぎません。罪があるというのは、「父なる神様の御心は」に従っていない事なのです。イエス様が無原罪だったというのは、過ちがなかったのではなく、神の御心に従った忠実な僕だったということでしょう。

では、その「父なる神様の御心」とは何でしょうか。それは、神の愛に生きることです。神の光の中を歩むことです。神が与えた命を感謝することです。

これが普通の人間にはできていないわけです。けれども、わたしたちは罪で固まっていますから、できていないことを、問題にも感じません。わたしの知っている人が洗礼を受けた話があります。その人はイエス様と同じ大工さんでした。奥さんはクリスチャンでした。毎日、誠実に働いていたのです。名前も誠一です。彼は自分が誠実であることが誇りでした。仕事でもズルはしないで誠実に働いていました。酒もたばこも、賭け事もしない人でした。そうした誠実さが自慢でした。ところが妻に勧められて教会に行きました。牧師さんは優しい人でした。でも、人間の罪の問題をよく知っていました。罪の問題を知らず、神の与えた命を感謝することもなかった誠一さんに、ある日、牧師が「あなたは仕事で早起きですが、毎日、太陽が昇る時に神に感謝していますか」と問いかけたそうです。その時は、何を聞かれたのかがわかりませんでしたが、家に帰って静かに考えてみると、自分は感謝の足りない、自分だけの力で生きていると傲慢に思っている罪人だと分かったそうです。誠一さんは、その後洗礼を受けてクリスチャンになりました。

そのような無自覚な罪からも救うために、イエス様は自分には必要のない洗礼も受けられたわけです。それは聖書によく出て来る、ランサムの思想であり、自分ではできないことを、誰かが代替えとして贖罪してくれることです。これがわかると、聖書の教えの全体像がつかめることでしょう。

イザヤ書には、そうした目的のために、ある者を神が選び、霊をその人の上に置くと書かれています。その洗礼の時に、神の聖霊が鳩の形で見えたというのです。何故鳩なのでしょうか。ノアの洪水の話にも鳩が登場します。それは大洪水という試練が終わったしるしでした。ですから、鳩は平和と神の愛のしるしであり、混乱回復のしるしでもあります。というわけで、鳩が罪からの解放のシンボルとして現れるのです。ルターは「洗礼に関してキリスト者は生涯にわたって勉強し、その内容を熟知しなければならない」と述べています。ルターは試練と絶望に遭遇した時に、自分は神に愛され洗礼を受けているのだと思い起こして、救いの確信を回復できたそうです。

わたしたちの場合には、まず、自分が暗黒の中にいて、救いがたい状況だという事、自分が自分では救えない存在だと認めることが洗礼の第一条件です。ここで意義あることは、罪なき神の子イエス・キリスト自身がまず初めに、罪人の洗礼を受けて、わたしたちのために身代りとなって罪の罰を受けてくださったことです。聖書に一貫している、代理的贖罪の思想です。自己矛盾となりますが、罪人が自分で罪を贖えるなら、最初から罪人ではなく善人なのです。一方、代理的贖罪は十字架も同じです。イエス様はわたしたちを愛して下さり自分が率先して罪の裁きを受けたのです。この無条件的代理的贖罪、それが、イエス・キリストの神性です。神性とは、無謬のことではありません。「父なる神様の御心」を行うことです。

わたしたちはイエス様ではないので、おそらくこれからも、罪の中に生き続けるでしょう。空しい風を追いながらいきるでしょう。それがあたかも人生の目的であるかのような錯覚を持ち続けて生きるでしょう。誤謬の塊です。また、このゆえに悩みと困難は消えないでしょう。

しかし、キリスト教の救いはわたしたちの正しさとは関係ありません。無条件的代理的贖罪論が中心だからです。日本ではキリスト教を誤解して、道徳的宗教と思っている人も少なくありません。イエス様がファリサイ派の人々に反対したのは、彼らの道徳的宗教が欺瞞に満ちたものだったからです。人間が道徳で救われるなら、無条件的代理的贖罪論は必要ありません。キリスト教系カルトがイエス様の十字架を否定するのは無条件的代理的贖罪論を理解できないからです。むしろ、わたしたちが正しくなくて、罪の影響で苦しんでいる事、そして、このわたしたちを神様が絶対愛で愛し、洗礼を授けてくれることをイエス様は伝えたかったのです。

わたしたちを絶対愛で愛する神は、神の僕イエス・キリストの洗礼、イエス・キリストの十字架をテコとして、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章16節)という言葉を実現してくださったのです。洗礼によって神様はわたしたちの人生を穏やかで感謝に満ちたものに変えてくださいます。

草木も実を結ぶまでには、種から発芽、成長、開花、結実になります。焦らずに、イエス様の洗礼と十字架の清めを信じて、「春の小川はさらさらいくよ」の気持ちで過ごしたいものです。

自分の力で「生きる」ことはできません。しかし、神の助け、神が人生に送ってくださる人々によって必ず生かされるのだという確信が救いの意味です。イエス様はまさに、神に送られた人でした。しかし、それは二千年前です。わたしたちの生きる現代、コロナ禍の社会の中にも、神の送ってくださる小さなキリストは存在します。そしてわたしたちの命を支え、神の絶対愛があるから大丈夫だと教えてくれるのです。この救いの確かさを聖書は今日も伝えているのです。

神はわたしたちに、頑張ることよりも、自分の「愚かさ」「弱さ」を認め、むしろ感謝することを望んでいます。また、他人のこの「愚かさ」「弱さ」を優しく温和に受け止めることを望んでいます。それが赦しであり、十字架であり、無条件的代理的贖罪論に生かされることの意味です。

ルターは言いました、「自分が神に近いと思う人ほど、神から遠い。逆に、自分が神から遠いと思うほど神から近い。」なぜなら、聖書に書いてあるように、神は正しいと思っている人ではなく、正しくないと思っている人、自分には汚れと、罪しかないと思っている人を招くためにイエス・キリストという無条件的代理的贖罪者を送って下さったからです。これがわかれば春は近いです。冬来たりなば、春遠からじ。

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