今週の説教

コロナの影響で孤立化していると思った時に読む説教

「もう一人じゃない」        ヨハネ17:20-26

皆さんは現在、孤独ですか、それとも友達や家族とも会えていますか。イエス様の弟子たちは、3年間イエス様と寝食を共にして伝道の働きをしました。これは友達以上の集団です。しかし、イエス様は十字架にかけられて処刑されてしまいました。リーダーを失った集団はその後どうなってしまったのでしょう。イエス様を失ってバラバラになってしまいました。けれども、イエス様は以前に弟子たちに教え、三位一体を完成させる聖霊降臨があると予告していました。父なる神と、子なるキリスト、そして聖霊なる教会が成立するときに三位一体が実現するのです。インターネット教会も、建物のない教会ではありますが、これも聖霊の教会ではあるわけです。

さて、ヨハネ福音書の本文を見てみましょう。20節では、「彼らの言葉を通してキリストを信じる者」という表現が見られます。イエス様の十字架処刑のあとで弟子たちの多くが失望しましたが、見える目標を失った彼らを励まし勇気をあたえるものは、見えない言葉しかありませんでした。しかし、この見えない言葉が大切だったのです。聖書では、言葉はロゴスであると書いてあります。ロゴスである言葉とは不思議なものです。クリントン氏が大統領だった時に、奥さんのヒラリーの故郷を訪ねました。その時に、偶然立ち寄ったガソリンスタンドのオーナーが、ヒラリーの昔の恋人でした。そこで、夫のビル・クリントン氏は言いました、「君は僕と結婚してよかったね。あの人と結婚していたら、今ごろはガソリンスタンドのおかみさんだよ。」ところがヒラリーは言いました。「違うわ、ビル、もしわたしがあの人と結婚していたら、あの人が大統領になっていたのよ。」(笑)これもロゴスです。同様に、復活を伝える言葉=ロゴスがなかったら、弟子たちは失望したままだったでしょう。

次の節には、まさに三位一体が書かれています。つまり、父なる神がイエス様の中におられ、イエス様がわたしたちの中におられ、また、そこにいない人々もイエス様とわたしたちの共同体の中(教会)にいるというのです。「人が独りでいるのは良くない」というのが、聖書の教えです。コロナの影響で、わたしたちは良くない情況に置かれています。それでも、以前から孤独老人はいたわけです。孤独老人の心配事は、だれにも看取られないで一人で死ぬことだと、80パーセントの人が思っているそうです。ただし、キリスト教にはそういう心配がありません。なぜなら、イエス様が教えたように、「父なる神がイエス様の中におられ、イエス様がわたしたちの中におられる」というロゴスを伝えているからです。実際に、信仰者にはまわりに誰もいなくても孤独死は存在しません。神との一致があるからです。

さて、この一致の結果、ギリシア語でドクサ(栄光)が与えられるとイエス様は言いました。これは、ユダヤ教の伝統から派生したシェキナーという言葉のギリシア語訳であり、その昔、至聖所を照らす神聖な輝きを示す言葉でした。当時は祭司しか入れなかった至聖所での、神からの栄光にわたしたちもあずかることができるというのが、この約束です。礼拝の最後に歌う頌栄という曲は、ドクサからきたドクソロジーとも呼ばれます。ルーテル教会の礼拝式文ではドクサはグロリア(栄光)でもあります。そして、栄光とは父と子と聖霊の三位一体性を実感して讃美することです。そしてわたしたちも、一人ではなく見えない教会の一員として、三位一体を構成する大切な柱として聖霊の導きをいただいていることの喜びをあらわすことができます。聖霊とは、特殊なものではありません。今こうして、聖書の言葉に触れている事自体が聖霊の世界なのです。聖霊の働きなしには、原罪に満ちた人間は、真の神に思いを向けることはありません。こうした聖霊の働きについて、詳しく学ぶには、使徒言行録を読むと良いでしょう。

さて、聖書に戻りますと、三位一体の話のあと、イエス様は、神がイエス様をこの世に遣わしたことと、神が絶対愛の愛で愛してくださっていることを弟子たちが知って、完成された状態になると予告しました。完成とは、十分に成長し成熟の極みに達するという意味です。カトリックの思想家であり社会事業家であるジャン・バニエによれば、成熟した信仰のしるしは、持っていないものを嘆くのではなく、持っているものを喜ぶことだそうです。皆さんの日常の意識がすでにそうであるならば、それは成熟のしるしです。ただ、成熟していなくても心配はいりません。成熟させてくださるのは神だからです。わたしたちにはなにもできません。普通の人間のことを、聖書はサルクス(肉)と言いますが、そのしるしは、持っていないものを嘆き、持っているものを感謝しないことです。これを反対方向へと転換させてくれるのが、聖霊の働きです。そして、聖霊の働きは、教会の重要な活動です。インターネット教会のメッセージも、聖霊の働きの一つだと認識していただければ嬉しいです。

聖書本文の24節からは、イエス様の祈りになっています。大切なのはイエス様が、「神よ」と祈っているのではなく、お父さんと呼び掛けていることです。それほど、イエス様と神様は近い存在であり一体感、一人ではない実感があったということです。イエス様は、単独で十字架にかけられたときにも、神との一体感を失っていません。わたしたちの場合にも、試練や悲しみの際に、神との一体感を失っていなければ、その三位一体性は本物です。25節には正しい父よという表現が見られます。この正しいというのは、ギリシア語でディカイオスであって、善悪の意味ではありません。ディカイオスとは神の義の事であり、これはもともと裁判用語で、すべてのものの権利を公平に扱う方という意味です。それは、神がこの世の基準とは全く違った基準で、すべてのものを無条件の絶対愛で愛し、その愛によって、成長させてくださり、やがて三位一体の一致、神とイエス・キリストと一つとなること、「もう一人じゃない」ことを明らかに示してくださるという預言です。それによって、わたしたちも、神をお父さんと呼ぶことができます。わたしたちは言葉=ロゴスによって生かされ成長できます。それを信じるのが信仰です。ちなみに、ヒラリー・クリントンさんはメソジストの教会で育ち、神の召しと導びきを信じているそうです。教条的、律法的、排他的信仰が他者を非難するための手段になることを残念に思うそうです。信仰を持っているなら、神から自分が何を期待されているか、そして自分がそれに従っているかどうかを、常に自問自答すべきだと考えているそうです。こうした言葉こそ、まさにロゴスです。そしてロゴスとは天地創造の原初からわたしたちの脳裏に刻印されたプログラミングだとも言えるでしょう。DNAに記録されたロゴス・データは神の無限の可能性をあらわすアルファとオメガのプログラムといえるでしょう。そして、イエス・キリストの贖罪によって、わたしたちが神に結ばれるときに、創造者と被造物の再統合があり、わたしたちは「もう一人じゃない」のです。そして、神は、今、この瞬間も、この記事を読んでくださっているあなたに、神の絶対愛をつたえ、「あなたを無条件に愛し、どんな困難の中にあっても、あなたを必ず助ける」と告知して下さっているのです。神に不可能はありません。神を信じるとは、神に不可能はないと信じるのと同じことです。コロナは人や社会を分断する試練です。しかし、コロナがあったからこそ、わたしたちはこの世の幻想的・偽善的・付和雷同的な一致に見切りをつけ、真の創造者との根源的一致を求めることができるのです。

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