閑話休題

讃美歌312番「いつくしみ深き」の神学的問題点

讃美歌312番はなじみのあるメロディーです。日本では、「月なきみ空に、きらめく光」(文部省唱歌)で知られています。ただ、文部省唱歌になる前から、これは海外で讃美歌として使用されていた歌でした。その歌詞のキリスト教的な要素を全部取り除いて学校で使ったわけです。勿論、この曲は英語の歌詞が翻訳されて日本の教会でも歌われることになりました。ただ、わたしが問題にしてみたいのは、その翻訳における神学的問題点です。すべての讃美歌には、神学的な救済観が織り込まれています。ですから、極端に言えば、讃美歌とは歌う聖書のようなものです。ただし、聖書の持っている神学と讃美歌の意図することが違ってくると問題です。前述の「月なきみ空に、きらめく光」(文部省唱歌)のように訳されてしまえば、情景描写は美しくても、せっかくの救済観はだいなしです。ところが、英語で書かれた歌詞をそのまま日本語に移し替える時にも、同じようなことが起こります。では、見てみましょう。讃美歌312番は、「いつくしみふかき友なるイエスは」で始まります。英語の歌詞は、WHAT A FRIEND WE HAVE IN JESUSです。この二つが同じに見える人もいるでしょう。ところが神学的には違います。日本語訳では、イエス・キリストが自分の友人なのです。親友のようなものとして考えてもいいでしょう。特に近代のキリスト教では、イエス・キリストに対する親愛の情を強調する傾向があります。しかし、もともとの英語の歌詞は、アイルランド出身のジョセフ・スクライヴェン牧師によってつくられたものであり、神学的にも健全です。何故、健全なのかというと、イエス・キリストは友達なんかではないからです。英語では、JESUS CHRIST IS MY FRIEND、とは言っていません。ジョセフ・スクライヴェン牧師が伝えたかったことは、わたしたちがイエス・キリストの中に友を見出すことができる、という事だったのです。漫画の「聖(セイント)お兄さん」のように、直接に友達になるわけではありません。イエス・キリストの中に友を見出すというのは、間接的な関係なのです。聖書では、神との関係(神の子イエス・キリストとの関係も同じ)においては間接性に重点が置かれています。例えば、ユダヤ人は今でも神という言葉はとなえません、ヘブライ語で「YAHWEH」という表記はあるのですが、声に出して読みません。その代わりに、アドナイ(主なる方)という間接的な言葉で読みます。神との直接的な接触を避けるのが、正統派神学の特徴です。神は友を与えるかもしれませんが、神自体が友ではないのです。人間が踏み越えてはいけない限界をキチンと設定しているのが聖書の世界です。友達なら、信頼できるとか、裏切られたという表現を用いることは可能です。しかし、神の場合には違います。神を直接的に人間のレベルにおろしてはいけないし、もしそうしたならそれは神ではなく、偶像(人間の手で造った偽りの神)になってしまうのです。日本文化は、聖書の文化とくらべると、神学的には、はるかに直接性が支配的です。偶像と純粋に神性なものとの区別がつかない世界です。もし、日本語に堪能なユダヤ人が讃美歌312番を翻訳したとしたら、「いつくしみふかき友なるイエスは」とは決して訳さなかったでしょう。神の名前の場合と同じに、何か別の事に置き換えていたと思います。越えることのできない境界があるからこそ、神が神なのです。自然災害や、コロナのようなことが起こっても、正統神学からは「神が憎い」というような直接的な表現は不可能です。「神よ、もし許されるならば、この苦しみの原因を愚かなわたしたちにもお示しください」としか言えないのです。

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