聖書研究

最大の者が最小の者となった受肉の神秘は究極の自己否定

フィリピの信徒への手紙2章5節11節  文責 中川俊介

フィリピ教会の信徒に対するパウロの牧会的な助言は続きます。5節でパウロは、他者に関心を持ち、他者を尊重することに気持ちを向けなさいといいます。「5節はそれに続くすべての節の鍵となっている。」[1] その背景として、フィリピ教会に様々な軋轢があったからです。フィリピ教会は一部の人々の争いと傲慢な態度によって苦しめられていたのです。「パウロの言動が問題を引き起こしたかどうかにかかわらず、われわれは教会における人間関係の問題発生の原因として、パウロ自身を無視すべきではない。」[2] ある学者は、パウロでさえも教会から人間関係の問題を除くことはできなかったと述べています。

さて、一般的な宗教はまず自分の救いや自分の行いに気持ちを向けやすいものですが、パウロは、イエス・キリストもそうだったから、あなたがたの間では、他者の事も心を占めるようにしなさいと命じます。「パウロは、自分自身の事を放置して、ただ他人のために骨折るようにと求めてはいない。」[3] 考えてみれば、人間の罪とは、簡単に言えば自己中心の姿勢にあるわけです。「罪とは神に敵対する高慢な自主性である。」[4] ですから、その方向転換(悔い改めと同義)として、他者に目を向けるのは当然なことでしょう。しかし、その当然なことが、よく無視されるのを熟知したうえで、パウロは難しい教理は説かず、ただ「他者の事に思いをよせなさい」と諭したのです。これは、「救われるためにではなく、むしろ恵みを与えられたがゆえに、キリストを生の原理として生きることを求めるのである。」[5]

続く6節には、いわば隠された宝のような言葉が続きます。パウロが心から信じるイエス・キリストに関する叙述です。キリスト賛歌とも呼ばれます。第一に、イエス・キリストは神のモルフェーだったと言います。モルフェーとはギリシア語で、形、外観、輪郭などを示します。「この言葉は、新約聖書の中ではここと7節にしか用いられていない。この賛歌の作者は、キリストは神であると明言することを望まなかったのだろう。」[6] ただ、モルフェーは形式的かつ一時的な外形ではなく、不変の実質を意味する言葉です。つまり受肉です。「これはキリストの受肉前の状態を述べている。」[7] 永遠の愛の神ご自身がイエス・キリストの人間的な外形をとってこの世に来られた、それ故にイエス・キリストの中に、他者に対する愛も十全に存在するという事です。敷衍すれば、このイエス・キリストを信じる者の中に、他者に対する愛は実現するのです。それをパウロは求めています。また、深く考えれば、キリスト教の愛というのは、各人が決心して、あるいは心に感じて愛するという様な自律的なものではなく、外部から求められることによって生まれるという他動的なものであると言えるのではないでしょうか。それが福音の宣教であり、伝道の理由なのであると思います。ここでパウロが求めているのも、まさにそのことでしょう。ただ、6節の後半でパウロが強調しているのは、イエス・キリストが本来所有する神の属性を、イエス・キリストはそれを特権的なものとして固執せず、神と等しくあることを利用しようとはしなかったというのです。究極の自己否定とも言えます。最大の者が最小の者となったのです。ここにこそ受肉の神秘が隠されているのです。しかし、何故、パウロはフィリピ教会の信徒に対する牧会的な指導の中で、受肉の神秘という様な神学的提題をもちだしたのでしょうか。「パウロは、教会におけるあらゆる問題をたとえどんなに具体的なものに見えても、神学として理解したのであり、それゆえあらゆる問題に神学的に答えている。」[8] つまり、教会の現場での実践的な必要事項として考え抜いたことが神学となったわけです。フィリピ教会の信徒たちの場合に、一つ考えられることは、信徒相互が互いに自らを低い立場に取る際に、皆が自覚すべきその原型として、受肉のキリストの姿があるのだと、パウロは諭したかったのだと思います。そしてこれは、二千年を経た現在でも教会が立つべき土台の石として、イースター前の枝の主日に唱えられる言葉なのです。受肉と受難というテーマが形而上学的な理解にとどまらず、実際の教会の人間関係に応用された例といえるでしょう。

7節でパウロはされに続けます。イエス・キリストはかえって己を空しくして、僕の姿をとったというのです。「彼自身は、何の所有も、権利も、力も持たない。彼はただ従うことができるのみ」[9]であり、空しい存在なのです。この際の空しくとは、ギリシア語でケノーシスであり重要な表現です。ケノーシス論の根源となる言葉です。己を無にすることが神の属性を有するイエス・キリストにおいて起こったのです。「無にするという単語は、無駄である、あるいはむなしくするとも翻訳することができ、第二コリント8:9の『キリストは、豊かであったにもかかわらず、貧しくなられた』における『貧しい』と実質上同義語である。」[10] 神が御自身を自己否定されたのです。神が支配する者ではなく仕える者となったのです。これほど偉大な受肉の奇跡があるでしょうか。そして、この神が人間の姿をとって人間として現れたのです。

さらに8節では、このイエス・キリストが自らを賤しくし、そして、死に至るまで服従し、さらに十字架の死に至るまで従順をしめされたと、パウロは語ります。「死は神のかたちにはピッタリしない。それなのにイエスは、死を望まれ、神に服従して死の苦しみを受けられた。」[11] ここで、賤しくしたという言葉の意味ですが、それは精神的に謙遜であったり謙虚であったりするだけではなく、社会的に圧迫されている階級に己を置いたという意味も含まれます。イエス様の伝道活動を福音書において俯瞰しますと、確かに、イエス様ご自身は社会的な被抑圧者をこよなく愛し、その群れの中に自分を置かれたといえます。そして、その究極が犯罪者に対する極刑である十字架刑を従順に受けられたというのです。「パウロが十字架に言及する場合、いつも十字架自体の救済論的意味が強調されている事実を見逃すわけにはいかない。」[12](イザヤ書53章参照)また、ここで重要なのは単に十字架刑の残忍さではないのです。そもそも、無原罪であり、神の属性を有するイエス・キリストご自身が、罪人となり、わたしたちの身代わりとなって神の裁きを受けてくださったところに、ケノーシス論の中心点があるわけです。そしてケノーシス論こそキリスト教教理の中心であるキリスト論と贖罪論の中核となる教えなのです。「この方を首とするからだの一肢体となる者に、神は赦しをお与えになることができる。」[13] これは、意識的に自分を無にする、あるいは自己否定するという論理と混同されやすいものです。新共同訳聖書にも、7節の訳で「かえって自分を無にして」とありますが、この原因がイエス様ご自身の判断とか決意によるものではなく、8節に強調されている「従順」という点を見逃してはいけないと思います。自ら行うケノーシスは、そこにまだ自我が存在する限り、本当の意味での空ではありません。愛する神の命に従ってケノーシスと初めてなりうるのであって、三位一体の考えなしには理解できないことです。また、三位一体こそが命ずる神と従う神の子という愛の関係の図式を可能にするものです。救いは単数形ではありえず、常に複数形であります。同様に、キリスト教では仏教と違って救いを個人の悟りに求めず、聖霊の宮である教会という、複数存在の中に求めるのもこの為です。プロテスタントのキリスト教救済論はしばしば個人の信仰に求められますが、そのために愛を忘れた主観的信仰の差異によって争いが生まれやすいものです。新約聖書を見ればイエス・キリストが信仰を創造主への愛における従順に求めたのは明白です(マタイ8:9以下参照)。

パウロはイエス・キリストのケノーシスでその論を終わらせる事なく、9節では、その結果、神がイエス・キリストを最高の地位に上げたと述べます。「神によるキリストの高挙の業には、ルカをはじめ何人かの聖書記者が復活と昇天を分けて考えていることがらが含まれる。」[14] それは天の位への即位であり、まさに後の者が先になるということです。また、キリストを十字架で殺したこの世の暗の支配力、わたしたちを苦しめる死の力、これらに勝ったので、すべての名に勝る名を与えられたと告げます。神は、神の命に従って罪人として十字架刑を受けたイエス・キリストを復活させ、愛する御子に最高の名誉を与えたのです。「キリストが報酬として高挙されたという考えは、宗教改革当時の神学者たちには嫌悪を感じさせるものだった。」[15] イエス様は高挙されることを目的にして十字架にかかったのではなく、すべてを捨てて創造主のみ心に従っただけです。ある学者は、キリストの生涯は、トンネルではなく、先の見えない洞窟であったと述べています。ですから、ここに功利的な動機は見られないのです。また、パウロ自身がこのキリストの復活の証人の一人でもあったのです。

そして、10節では、イエス様のお名前の前で天上の者、地上の者、地下の者、それらすべての者が跪くためであるとします。地下の者とは、イエス・キリストを知らずにこの世を去った者たちのことです。また、ここに見られるのは、ガリラヤ出身であったイエス様が、そのケノーシスの故に、神より「キリスト」としての名称を贈られ、文字通り、イエス・キリストとして礼拝の対象となることです。「この告白は、初期クリスチャンの信仰告白となった。」[16] また洗礼という聖礼典もしかりです。「父と子と聖霊の名によって洗礼をほどこすというのは、洗礼を受ける者を象徴的にこれらの名前が示すすべての事柄との結合と交流の場に置かれることである。」[17]

さらに、11節で、すべての舌が讃美し、イエス・キリストこそ父なる神の栄光に至るものであると告白するというのです。また、ここで、栄光とは単なる光ではなく旧約時代の神殿で見られた神の臨在を現わすシェキナのことです。であるとするならば、讃美もそうですし、跪くことも含めて、イエス・キリストのケノーシスがすべての人を愛に基づいた讃美の礼拝に導くとパウロはいいたいのでしょう。そして、わたしたちの礼拝の中心もここにあると考えられます。牧会論から始まったパウロの手紙は、いつのまにか礼拝論になっていました。要約してみるならば、教会において多様な人々が共に平和の裡に生きるには、愛する神のご意思に従ったイエス・キリストの従順を再確認し、それに呼応することです。そして、このイエス・キリストのケノーシスの結果、イエス様は、神と同質の高い地位にあげられ礼拝を通して、その愛の霊による栄光を授与してくださるのです。「信徒はこの約束の光の下に、生涯かけて従順の道を歩むように促され励まされる。」[18] イエス・キリストは愛の完成者です。なぜなら、イエス・キリストの愛がわたしたちの内に完成されることで、三位一体が完成するからです。「われわれの利己的で虚栄に満ちた心が、イエスの歩まれた道によって揺り動かされ、またその心がイエスの愛によって克服され、神をあがめて感謝しつつ喜んで同じ道に向かって歩みだすなら、この個所は正しく読まれているのである。」[19]

[1]  マーチン、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、2008年、100頁

[2] クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、日本基督教団出版局、1988年、74頁

[3]  ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、1977年、135頁

[4]  前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、149頁

[5] 佐竹明、「ピリピ人への手紙」、新教出版社、1969年、105頁

[6]  ホウソーン、「ピリピ人への手紙」、ワード社、1983年、81頁

[7]  ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、クラーク社、1897年、57頁

[8] 前掲、クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、82頁

[9]  シュラッター、「新約聖書講解10」、新教出版社、1977年、22頁

[10] 前掲、クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、79頁

[11] 前掲、シュラッター、「新約聖書講解10」、24頁

[12] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、124頁

[13]  前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、150頁

[14] 前掲、クラドック、「フィリピの信徒への手紙」、80頁

[15] 前掲、ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、61頁

[16]  マーチン、「ピリピ人への手紙」、いのちのことば社、2008年、111頁

[17] 前掲、ヴィンセント、「ピリピ人とピレモンへの手紙」、62頁

[18] 前掲、佐竹明、「ピリピ人への手紙」、137頁

[19] 前掲、ヴェルナー・ボール、「ピリピ人への手紙」、137頁

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