書評

エーリッヒ・フロム著「愛するということ」最終回

フロムは、第三章の目次を「愛と現代西洋社会におけるその崩壊」としています。そして、資本主義社会では、経済関係だけでなく、人間関係や社会関係も市場原理に従っているとします。市場原理においては、需要がなければ交換価値が発生しません。例えば、わたしの子供の頃には、どこでも井戸水を使っていました。地下水は誰でも手に入れることのできるものであり、それに対する特別な需要は発生しなかったので、商品価値はありませんでした。ところが、便利な水道になったのは良いのですが、ろ過や殺菌のプロセスを経たものとなり、自然の味は失われました。そこで、需要が生まれ、コンビニでもペットボトルにつめた地下水が売られることとなったのです。

フロム自身はハッキリとは言いませんが、資本主義社会の基本構造の中で、人間は商品化され、需要と供給のシステムの中で、愛も価格判断されるようになったと言います。昔の井戸水のように、人々の渇きを自然な形で潤していた愛も、商品化された人間の属性となってしまいました。現代の愛は、人間を幸福にする商品の一つに過ぎません。それを手に入れようとすることによって、わたしたちは「限りない期待を抱き、希望を失わず、それでいて永遠に失望している」(133頁)のです。そこで、フロムは、結婚カウンセリングの例をあげます。カウンセラーは、夫に、妻のドレスや料理を褒めなくてはいけないとアドバイスします。また、妻には、夫が疲れて帰宅したら優しくいたわるべきだと言います。しかし、フロムにとって、こうしたアプローチは二倍になった利己主義に過ぎず、愛の誤解なのです。つまり、包装を良くして、商品価値をあげようとする行為に過ぎないのです。そして、こうした社会的は市場迎合関係ではなく、フロムは対立の重要性を説きます。

「二人の人間のあいだに起きる真の対立、すなわち、何かを隠蔽したり投射したりするものではなく、内的現実の奥底で体験されるような対立は、けっして破壊的ではない。そういう対立はかならずや解決し、カタルシスをもたらし、それによって二人はより豊かな知識と能力を得る。」(153頁)簡単に言えば、表面的な対立は自分自身の存在を客観的に見つめることからの逃避であり、真の対立は、自分の自覚していない自分存在も露わにし、自分が自分と一体であることを実現し、ひいては、相手との一体化を可能とするものなのです。フロムはこの原点に立ってこそ、深いところでの二人の結びつきが実現し、それを愛と呼べるというのです。

しかし、愛の定義を知っても、それは愛の実現と同じではありません。処方箋を手に持っていても、治療には役立ちません。大切なのは実践的に生きることです。そこでフロムは、第4章で「愛の習練」について語ります。そして、愛を実現するには、規律、集中、忍耐、技術の習得に対する強い関心が必要だとします。そして言います。「一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。もし、自分の足で立てないという理由で、誰か他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人にはなりうるかもしれないが、二人の関係は愛の関係ではない。逆説的ではあるが、一人でいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。」(167頁)それは、自分の存在に敏感になる事です。沈黙して、自分を客観的な存在として冷静に見ることです。自分の芯を発見することです。「私は私だ」という存在に対する確信を持つことです。聖書では、神がモーセに自らを顕現し、「私は在って在るものだ」(出エジプト記3章14節)、要するに「私は私だ」と告げました。つまり、存在の芯とは、神の世界の事だと考えていいと思います。その他の表面的なものは、神ではなく偶像の世界です。フロムはユダヤ人ですから、こうした神の概念は知っていたでしょう。興味深いことに、存在の芯には神が存在し、また、新約聖書には「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」と書かれています。愛は、わたしたちの足下にあるのですが、その発見と実現には、「愛の習練」が必要だということを学ばされました。別の機会に書きましたが、イタリアのテノール歌手アンドレア・ボチェッリが、声楽の先生から沈黙の習練を命じられたのも、愛の発見に関係があるように思えます。

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