閑話休題

東日本大震災から10年、いまだに「わたしは死んだのですか」と尋ねる幽霊があはれ

被災地では、いまだに幽霊の目撃があるそうです。まだ、あの世にも行けずに迷い出ているのです。ですから、彼らが現れると「わたしは死んだのですか」と尋ねてくるのです。わたしが仏教の坊さんでしたら、幽霊を怖がらず、彼らに引導を渡してあげるところです。引導を渡すという言葉は、元来は、死後もこの世の執着を捨てきれずに迷っている魂を、宗教者が済度し、悟りに導くという意味です。しかし、現在では、「とどめを刺す」という様な違った意味で用いられることもあって残念です。仏教では、現世への執着を罪悪と考えています。考えてみれば、まだ生きていたかったのに突然に命を奪われたのですから、末期を予測していたわけでもなく、執着が強いのは同然でもあるでしょう。ただ、愛する者や愛する世界に執着するのが罪悪かどうかは自分には判断できません。興味深いことに、同じ仏教でも、浄土真宗の場合には、引導を渡すことはないそうです。つまり、自力ではなく阿弥陀仏のはからいで済度を既に受けているので、引導の必要がないわけです。被災地の幽霊は、生前に、浄土真宗を信じていた者ではないことがわかります。おそらく無宗教だったのでしょう。では、キリスト教はどうでしょうか。教理的には、他力でもあり、浄土真宗に似たところがあります。ただ、特徴的な点は、洗礼式です。日本では、キリスト教に好意的な人は数百万人いることが年間の聖書販売数で分かります。しかし、洗礼を受けている人は多くはありません。その人が、突然の死に遭遇したときには、幽霊になる可能性はあります。この世への執着を残しているからです。ただ、興味深いことに、洗礼の儀式というのは、単なる罪や穢れの洗いの儀式ではなく、執着を持つ古い自分に死ぬという意味の礼典なのです。そしてこれは、絶対的な神の働きなので、サクラメントなのです。自分の意志で、取り消したり、やり直すことができないものです。ポイント・オブ・ノーリターン(戻ることのできない点)なのです。ある式文にこう書いてあります。「洗礼は、私たちがキリストにあって死に、キリストにあって新しく甦えり、キリストの体である教会に加えられたことを神と教会との前に告白するものです。」その根拠は、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ信徒への手紙6章4節)「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ福音書3章3節)、などの教えによるものです。仏教でも教えていますが、執着心は人を苦しめ悩ませるものです。しかし、不思議なことに執着心を取り除こうとするのもまた執着心です。仏教の高僧たちも修行時にこの矛盾を経験しています。一方、キリスト教の済度は、死ぬことです。十字架の死の教えとも言えます。死んだ者はもはや執着を持ちえません。本当に死んだからです。被災地の幽霊は、宗教的に言えば、まだ本当に死んだわけでもないし、生きているわけでもない、中途半端な迷いの状態に置かれているわけです。だから、引導を渡す必要があるのです。自分では成仏できないのです。その点では、仏教はすべて他力だと考えてもいいでしょう。自力の限界点は死に関する点にあります。キリスト教も、勿論、他力です。自分で努力して執着を解いて悟ろうとすることも、一つの自力的執着であり、外側からの大いなるパワーの助けがなくては救いは不可能だからです。では、迷って成仏できない幽霊になんと言って慰めたらいいのでしょうか。こう言ってもいいかも知れません。「あなたは死んでもいいんだよ。神様は地獄の底でもあなたやあなたの家族を愛しておられるから。」死の受容です。そして、死を越えた生命の源である神への信頼です。視点を、自分自身から外側の大いなる霊的存在に向けることによって救いがあるわけです。初期キリスト教には、数世紀に及ぶ迫害を受けた歴史がありますが、殉教者が迫害者を恨んで幽霊になったという話はあまり聞きません。迷わなかったからです。日本でも、長崎の26聖人の殉教の地にいくと、幽霊や呪いではなく、「汝の敵を愛せよ」という教えのような、清純な思いが胸に迫ります。ですから、被災地の幽霊が、自分たちの死の意味を知り、死を受け入れ、復活の命へ向けて旅立つことを、3月11日に祈念してやみません。追記:被災した地域の多くは、明治時代にロシアの宣教師ニコライが、必死に神の愛を伝えた土地でした(ニコライの日記参照)。ニコライも天国で彼らをあはれに思い、彼らの救いを神に願っていることでしょう。

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