昭和演歌にみられる日本人の心情
演歌を聞きながら床に就いていると熟睡できます(笑)。わたしの場合には、メロディーよりは歌詞に興味があります。その歌詞を聞いていると昭和の時代が彷彿とされます。みんな苦しかったんだなと思います。しかし、苦しみが純化し、詞になり、歌になっています。素晴らしい文化財ではないでしょうか。ところで、演歌の歌詞には共通点があります。それは悲しい心情を表現する単語です。夜、小雪、細雪、雨、冬、波止場、列車、汽笛、裏町、酒場、一人酒、等々です。歌というのは、歌う人がいて聞く人がいて成立します。つまり、そこは心情共感の世界なのです。日本の反映を築いてきた昭和の時代の共感の原点は、人生に対する空しさだったかもしれません。「諸行無常」という仏教の教えがまだ色濃く残っています。では、聖書はどうでしょうか。旧約聖書には共通点があります。「コヘレトの言葉」(口語訳では伝道の書)を見てみてください。冒頭から、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代起こり、永遠に耐えるのは大地。」(新共同訳;コヘレトの言葉1章2節以下)と書いてあるではありませんか。ただ、個人的には口語訳の言葉の方が好きです。「空の空、空の空、いっさいは空である。日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変わらない。」(口語訳;コヘレトの言葉1章2節以下)やはり、戦後10年して改訳された昭和の口語訳には、まだ戦争体験による圧倒的な喪失感が残っており、読む人の悲しみの中にズーンとはいってきます。これも、歌詞と同じく心情共感の世界です。深い悲しみを持ったことのない人には、深い悲しみを伝えることが難しいわけです。逆も、同じです。大きな喜びを持った人でなければ、喜びを伝えることはできません。新約聖書に、このような悲しみを見出すことが難しいのは、聖書記者たちが、大きな喜びである「福音」につき動かされていたからでしょう。イエス・キリストの架刑後の弟子たちの悲しみを描いた「エマオへの道」でさえも、いつのまにか、復活の喜びの知らせを伝える道のストーリーに変わっています。とはいっても、自然災害や、疫病で苦しむわたしたちの現代社会では、旧約聖書の言葉のほうが心情的に共感を覚えやすいでしょう。最後に、同じ「コヘレトの言葉」に書いてある、これはどうでしょうか。「人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物に過ぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。」(新共同訳;コヘレトの言葉3章18節以下)この部分は、口語訳より新共同訳に共感を覚えました。