鈴木るりか著、小学館、2018年 「さよなら、田中さん」
鈴木るりか著、小学館、2018年 「さよなら、田中さん」
作者の鈴木るりかさんは、2003年生まれなので、本の出版当時は、まだ15歳の中学生だった。しかし、彼女の執筆能力はスゴイ。巻末のプロフィールを見ると、小学生の時に3年連続で、小学館主催の文学賞を受賞している。もう、大学生になっている年ごろだが、本の出版当時の将来の夢は、小説だけでなく、シナリオや漫画にも挑戦してみたいと書いてあった。小さな巨人、あるいはモンスター的な存在だと思った。
最初の数ページ読んだだけで、彼女が小学生のころから文学賞を受賞した理由が見えてきた。主人公である花ちゃんは、自分の家にはお父さんがいないことと、母親がそのことをあまり話したがらないナゾから書き始めている。そして、読者の方もハラハラしながら、彼女とぶっきら棒な母親との対話記録みたいな文章を読んでいると、ガーンと頭を打たれる。それまでは、お父さんは亡くなっていたと聞かされていた。しかし、母親が生前のお父さんのことを話したがらない。そして、「そのとき稲妻みたいな直感が脳天を突き抜けた」のだった。それまでナゾだった、お父さんは、犯罪者だったのだろうと彼女は結論付けた。英国でいう、「食器棚の奥の骸骨」、つまり家族の秘密。おそらく、こんなことを詮索しなければよかったな、彼女は思ったことだろう。
一方、頭がいいようで、イイカゲンなところも多い母親は、工事現場に働きに出ていて、夏に家に帰って半パンとランニング姿で寝転がっている姿は、「畑から掘り出したばかりの泥付きゴボウ」のようだった。彼女は、このゴボウさんに秘密を隠されながら、母子家庭であることに疑問を持ち続けてきたわけだ。お母さんは、親兄弟はもとより親族というものがない。たった、一人の孤独なゴボウさんだった。だから、当然、一人子の彼女も、親戚のおじさんやおばさんにお父さんの消息を聞くこともできない。まったく、謎の家なのだ。でも、彼女はこんなゴボウ母さんが好きなのだ。だって、ほかに誰もいないから。これは、読んでいる者にとっても少し心が痛む。でも、彼女の書き方は淡々としているし、ユーモアさえ感じてしまう。これも、彼女の文学能力が生み出す業なのだと思う。
失われた父親のことが気になっていた花ちゃんのまえに、一見不審者風の男が現れた。学校側からもクラスに注意がかけられていた人物で、何やら生徒のなかから誰かを探そうとしているらしかった。この男に話しかけられて、最初は、自分の父親かなという「期待が大きく膨らみ、すぐにしぼんだ。彼は、同じ家庭科クラブの優香ちゃんの別れた父親だった。」そして、その男から、優香ちゃんへの伝言までことづかってしまった。優香ちゃんの親は既に再婚していた。実の親のことを聞いた優香ちゃんは一瞬戸惑った。そこで、花ちゃんが言った、「会いに来てくれるおとうさんがいるだけいいじゃん。私なんかいくらこっちが会いたくても、来てくれないもん。」
それから数日後、優香ちゃんに頼まれて、実の親に会う場面がある。この様子が実に愉快に書かれている。少しで得をしたい貧しい女の子の期待と失望が、楽しいタッチで描かれていた。ところがその後、優香ちゃんのお父さんが、会社の金を横領して、海外に高飛びする寸前に逮捕された犯罪者だったことをテレビのニュースで知ることになる。これには、花ちゃんも度肝をぬかれたのだった。
翌日、花ちゃんと優香ちゃんは学校で会った。優香ちゃんも、実のお父さんの事件のことを知っていた。そして、花ちゃんは、多言しないことを約束した。それだけでなく、自分の父親も優香ちゃんの父親に似た犯罪者に違いないとつたえた。すると、優香ちゃんがホッとした顔で言った。「でも父親が似た者同士の花ちゃんでよかったよ。うちのお父さんに会ってくれたのがさ。ほかの子じゃ大変だった。不幸中の幸いってやつだね。」 その後、花ちゃんと優香ちゃんは、追われる側の家族という連帯感のようなもので結ばれたのだった。その後、この親さがしのエピソードは出てこなくなる。読者としては、この謎が気になるが、作者の鈴木るりかさんは、そんなことにはおかまいなく、小学生の頃に書いた短編を継ぎ足していく。ただ、あとの章で、花実ちゃんの苗字が、田中さんであることがわかってくる。そして、次に、読者は、どのように花実ちゃんが「さよなら」するのかが気になってくる。
さて、優香ちゃんのお父さんの事件の後には、お母さんの一風変わった性格や生活態度について、ユーモアを交えて書いてある。とても愉快なのは、お母さんが尊敬する人は、墓場の番人とか長期ホームレスの人などだった。お母さんが彼らを尊敬するのは、一般人からみたら極限に生きている人々だからだ。そんなお母さんの縁談を、ある日、大家さんのおばさんがもってきてくれた。お父さん探しは消えたかに思える花実ちゃんだったが、両親と私という構成の、家族への期待もふくらんだ。それに、なにしろ、相手はスーパーの経営者なのだから、常にひもじい思いをしている花実ちゃんの期待はふくらんだ。スーパーにあるおいしいものを、無料で好きなだけたべることは最大の夢だった。しかし、これはあっけなく破談となってしまった。この縁談の件で、花実ちゃんの姓が田中だと、やっと読者にわかる。そして、この本の最後の章の題は、「さよなら、田中さん」になっていた。この部分は、主人公が花ちゃんではなく、同じクラスの男子である三上君に入れ替わっている。そして、貧乏だけど他人の意見に左右されない田中花実ちゃんに、裕福な家庭の三上君は尊敬心とほのかな恋心を持つことになる。しかし、中学受験の失敗によって、彼は県外の私立中学の寮に入れられることになってしまう。その理由を、三上君は偶然知ることになった。それは、世間体もあって、母親ができの悪い息子を家においておきたくなかったからだった。三上君のお姉ちゃんやお兄さんは優秀だった。この寮おくりは、いわば現代の捨て子だった。三上君は悲しくて、橋の上で川に飛び込んで死のうかとも思って暗闇に佇んだ。ちょうどそのとき偶然に、半額セールからの帰宅途中の田中親子に出会った。そして、彼らの半額セールご馳走食事会に招待されてしまった。その会場は、田中家の小さな木造アパートの一室だった。貧しいけれども底抜けに明るい花実ちゃん親子に元気づけられて家に帰ると、兄さんと姉さんが、まだ小学生だった彼の寮入りを心配して泣いてくれた。そんな兄弟愛を三上君はそれまで感じたことはなかった。お兄さんなどは、家庭内の絶対君主のようなお母さんと喧嘩してまで弟の三上君を守ると言った。そんな温かい言葉を聞いて、三上君の涙も止まらなかった。それでも、やっと覚悟を決めて寮に向かう日には、田中さん親子が見送りに来てくれた。そして、三上君は両親に付き添われて、山梨県の山奥にある。ミッション・スクールの寮に入った。そこの神父さんに聖堂に案内されたときに、彼は思わず跪いて祈ってしまった。苦しい時にも、自分の心の支えになってくれた田中花実さんに、また会える日を願いながら。だから、「さよなら、田中さん」だった。
「さよなら、田中さん」、この本は、消えそうになった希望が消えることなく、聖書でいえば、傷ついた葦を折ることのない神の愛を、感じさせるものでもありました。三上君だけでなく、お母さんと愛美ちゃんとの関係にも愛が感じられます。「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(マタイ福音書12章20節)これは、イザヤ書42章3節からの引用です。それが、どんな意味を持っているかを理解するには、同じイザヤ書の後半の部分を読んでみるといいでしょう。神が救い主をたてた理由は、「見ることのできない目を開き、捕われ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために」(イザヤ書42章7節)、だったのです。「さよなら、田中さん」の作者である鈴木るりかさんは、救いだとか、解放だとかというメジャーなテーマは扱っていません。しかし、若い人なりの素直な感性で、田中花実さんのような、小さな友達が、消えそうな命や傷ついた心を励まし、支えていくことによって生まれる、小さな幸せと、解放感を味わう体験が描かれています。
先に述べたように、この本のいつかの章は、作者の鈴木るりかさんが小学生のときに書いた作品です。短編として文学賞をうけています。残りの部分も中学生の時に書き加えています。これは、現代の若者の、ビジュアルで鋭敏な感性が感覚がズーンと伝わってくる作品であり、青春時代が何十年も前に過ぎ去った者にも、今まさに痛みをもって傷つきながら未知の道を模索している者にとっても、ああ、自分もそうだと追体験させてくれる作品だと思いました。皆さんも是非読んでみてください。