死んだら天国や極楽に行けるかどうか心配な時に読む説教
「天国への入場券」 ヨハネ3:1-12
今日のイザヤ書の言葉は興味深いものです。イザヤは幻の中で天国の神殿を見ました。ところが神殿の入口では敷居が揺れ動いていた。それにイザヤにとって敷居は高かった。現在の日本はバリアフリーになってきていますが、昔の建物は敷居が高かったのです。さてここでクイズです。敷居が高いという表現の本来の意味を表しているのは次のどれでしょうか。1、借金を返していない叔父の家に行くのは敷居が高い。2、上流社会の人とオペラに行くのは敷居が高い。3、エベレスト登山に挑戦するのは敷居が高い。正解は1です。敷居が高いには、一種の罪責感、後ろめたさが含まれているからです。イザヤは自分の罪を考えたとき、とても神殿に入場できる資格はないと思ったわけです。ところが、天使が飛んできてイザヤの口に祭壇の火を触れさせ「罪は赦された」と宣言しました。そして、神殿に入ることができました。
さて、福音書の日課であるヨハネ3:1以下を見ましょう。ここに登場するニコデモという人物は身分の高い人で、全ユダヤ人の中から70名だけ選ばれた政治・宗教の最高指導者の一人でした。ただ、彼には自分が天国に入れるかどうかという不安があったと思います。自分の罪を知っている人ほど、天国の敷居は高く感じられたのでしょう。
彼は、自らが指導的なラビであるのに、イエス様に「ラビ」と呼びかけます。大変に謙虚な態度だとおもいます。本当に偉い人ほど謙虚なのではないでしょうか。
ただ、この世で謙虚な人でも、神の世界の事が分かっているとは限りません。ニコデモはイエス様が神のもとから来た教師であると「知っています」と述べています。ギリシア語で、この知っているという言葉にはギノースコーとオイダという二つの表現があります。一般的に言えばギノースコーはグノーシスの語源で神秘的な理解を示し、オイダは経験的に知っていることを示しています。ニコデモはイエス様をオイダで知っている、つまり経験を通してこの人は神の働きをしていると知っていたのです。
ただ、3節でイエス様はニコデモのこの経験的な知識では神の国に入れないとしています。ちなみにペトロがイエス様の処刑の時に、あの人は知らないと言った際の知らない、は「ウーク・オイダ」(知らない)であって付き合いはないという意味です。
では、経験ではない何が天国に入るための入場券となるのでしょうか。イザヤの場合には罪の赦しでした。イエス様はそれを「新たに生まれる」という言葉で表しています。「上から生まれる」という意味でもあります。どんなに経験が豊富でも、その経験を生かして神の国に入ることはできません。イエス様は弟子たちによくこのことを話しておられました。イザヤ書6:9からの引用です。「彼らは見るには見るが認めず、聞くには聞くが理解できず、こうして立ち帰って赦されることがない」見たり聞いたりはしているが、まだ本当に悔い改めておらず、天国の門は閉じているというのです。
ニコデモの場合も、同じでした。その問題点は6節に詳しく書かれています。肉から生まれたものは肉の世界でしかない。聖書では肉とは人間的なものを表しています。ガラテヤ書では肉的な思考(人間的な善意)のもたらす結果は、自己中心的な考えや、さまざまな欲望の追求、争い、敵意でしかないと書いてあります。ですから、イエス様はニコデモに、肉的なものや経験ではなく霊による生まれ変わりを信じなさいと勧めました。
例をあげましょう。わたしが知っているお坊さんがいます。人間的にみたらとてもいい人です。葬式仏教はおかしいと言って、自分が継ぐはずだったお寺を捨てて、新しく無料で奉仕するお寺を立てました。今では日本全国にたくさんの会員がいます。ただ、そのお寺の紹介をするブログの写真のほとんどに彼の姿が映っています。悪く言ったらよくないですが、人間中心的な宗教、つまり自分を売る手段になっているのです。
でも、ユダヤ教の指導者ニコデモもそうでした。ペトロや弟子たちもそうでした。パウロもそうでした。ルターもそうでした。わたしにも同じ面があります。おそらく皆さんもそうでないとは言えないでしょう。わたしたちが聖霊によって悔い改めていないかぎり、人間中心的、つまり聖書が言う肉的な存在です。ただルターは、苦しみの中で悔い改め聖霊を深く知りました。そして書いています。「真のキリスト者は地上にあっては、自分自身のためではなく、隣人のために生き、隣人につかえる」
外国にこんな話があります。貧しい子供がいてサーカスに入りたかったがお金がない。入場券が買えない。そこで裏の方のテントの裾をあげてそこから入ろうとして頭を突っ込んだら警備員のおじさんに足をつかまれて、引っぱり出された。「ここから入ってはいけない、ちゃんと入場券を買って入りなさい。」と言われてしまった。少年はお金がないのですから悲しい思いで帰りました。ところがある貧乏な友達が、お金がなくても入れる方法を教えてくれた。そこで、次の日も同じように少年がテントの裾から入ろうとすると、やっぱり警備員が来ました。でも、今度は無事に入れました。どうしてだかわかりますか。その少年腹ばいになっては足からテントに入ろうとしたのです。すると警備員がやってきて、「坊やここから出てはいけないよ」と言って中に押し込んでくれたそうです。
こういう不正は勿論よくありません。しかし神の恵みの福音というのは、わたしたちの悪をも善に変えて下さるのです。また、このたとえ話は、天国には自分の力では入れないことを示している気がします。わたしたちは、貧しいものです。自分で天国の入場券を買う力がありません。でもイエス様の助けで入れていただけるのです。天国の敷居は高くありません。罪が赦されているからです。
天国は、人間にとって最も必要なもの、愛、喜び、柔和、寛容、親切、善意、柔和、節制、などが与えられる素晴らしいところです。でも、いったん天国に入場したらそこは永住の場所ではありません。イザヤが神殿に入ると、中では誰を使徒として地上に遣わすかが協議されていました。天国は、「わたしを遣わしてください」といって派遣される場所なのです。これは、ルターも述べています。「聖霊はこの聖なる会衆を用いて、み言葉を宣べ伝え、聖化を成就する」教会は神の代理人としての役割を持っています。天国の入場券は実は二枚ひと組です。イザヤ書40:2に、恵は罪の二倍の恵みとなっていると書かれている通りです。一枚は自分への神からの招待券。もう一枚は、自分が神に代わってだれかを招待する券です。わたしたちは聖霊とみ言葉の宣教により、赦されていることを深く知りましょう。また、わたしたち一人一人が使徒として地上に遣わされ、赦しの席に人々を招待しましょう。それが救われている証しです。