今週の説教

人生に痛みを覚える時に読む説教

「もう恐れない」       マタイ10:16-33

これから希望を持って生きていくはずの小さな子どもたちが死んでいく小児科ガン病棟で研修したことがあります。前にも紹介しましたが、そこで働いていた聖公会の司祭が一つの俳句を教えてくれました。「痛み経て真珠となりし貝の春」。去りゆく者も、見送る者も、痛みなしには語れない人生がそこにはありました。ただ、神様は、小さな真珠貝の痛みを美しい真珠に変えてくださるように、わたしたちの痛みも決して無駄にはされないものです。

今日の聖書の個所は弟子たちの派遣の部分です。イエス様の復活を実感した弟子たちは、福音を伝えるために派遣されていきました。この派遣という言葉には、アポストル、つまり使徒という意味の言葉が用いられています。聖書には使徒パウロと書いてありますが、それは、パウロが偉いのではなく、パウロは派遣された者だったという意味です。だれでも神に派遣されているものは使徒です。そしてこの派遣は、イエス様の譬えによれば、狼の群れの中に羊を送るようなものでした。怖い場所です。なぜなら福音というのは神の愛であり、与えること、人に親切にすることですから、どうしても、この世の欲とか嫉妬の犠牲になりやすいものです。例えば、聖書では、アダムの息子のカインと弟アベルのことが書かれています。二人は神に捧げものをしたのですが、カインは特に考えないで収穫したものの一部を捧げました。アベルは一番良い物を捧げました。神はアベルの心からの捧げものを喜びました。すると、それをカインが嫉妬し、弟のアベルを憎み、殺害してしまったのです。わたしたちの間でも自分にはあんなにされていないのに、あの人だけは特別扱いをされている、という嫉妬や怒りが生じます。聖書に、「神に逆らう者の欲望は悪に注がれ、その目は隣人をも憐れまない」(箴言21:10)と書いてあるとおりです。

こうしたことが生じやすい社会に派遣される時に、イエス様は柔和さの象徴であるハトのように素直な姿勢をもちなさいと教えました。ただ、同時に、イエス様は蛇のようにも賢く立ちまわりなさいとも教えました。蛇は昔から知恵の象徴です。蛇は危険を察知してすぐに逃げます。初代クリスチャンたちも逃げに逃げて、逃げた先で福音を伝えました。これは、簡単そうであって、実は簡単ではありません。逃げるには、自分が慣れてきた土地を離れなければなりません。友達と別れなければなりません。場合によっては、財産を放棄しなければなりません。逃げることは何かを失うことです。しかし、多くの者は、失うことを恐れて狼の餌食になってしまうのです。わたしたちの人生はどうでしょうか。失うことを恐れてはいないでしょうか。

しかし、そんな困難なときでも、心配してはいけないのです。自分を捨てる覚悟ができたときには、神の霊が語り始めるのです。旧約聖書のエレミヤ書20:9で、エレミヤが神の言葉を拒否できず「わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」と語って迫害のなかに出て行って神の言葉を伝えたのに似ています。信仰者の生活は自分がなくなる生活です。その良い面は、恐れがなくなることです。ある人が述べていますが、人の恐れは、他人が自分をどう思うかの不安から起こります。それは自分が他人に依存しなくては幸せになれないという意識が埋め込まれているからです。また、幼児期に愛された体験のない人、いわゆるアダルトチルドレンは、守られた経験がないので、いつも理由なき不安と恐れを持っています。その人の特徴は物事を即座に決断できないことです。また、過去に他人から傷つけられた記憶が傷として残っている場合は、それが抑圧されて、怒りや恐れの原因となっています。でも、幸いなことに自分がなくなると恐れも消えます。だから、19節に自分が何を言うのかを心配する必要はないと書いてあります。自分ではなく、神様が必要な事を与えてくださるのです。

ただ、それは大変に危機な時であって、時には、アダムの家系のように家族同士が迫害することさえおこります。それだけでなく、全ての人に憎まれるというのです。全てという意味で使われているギリシア語はパンタです。電車の上に乗っかっている電気のパンタグラフと同じです。あれはすべての物を書く物、マジックハンドという意味です。イエス様は、弟子たちがイエス様を信じているがゆえに、全ての人から憎まれるといいました。

その四面楚歌のような苦しみの連続のなかでの忍耐し、最後の最後まで耐えることは大変なことです。しかし、マイナスはプラスとなります。救いが達成されるのです。誰からも憎まれると言うことは一つの比喩であって、人間が他人から嫌われ、見捨てられるという恐怖を、いかに耐えられるかが問われています。モーセが神に派遣されたときも、モーセは孤立無援であり、自分が口下手でとても神のメッセージを伝えられないと言いました。すると神は、「誰が人間に口を与えたのか。誰が、口を聞けないようにしたり、耳を聞こえなくし、目を見えるようにし、目を見えないようにするのか。神ではないか。」(出エジプト4:11)、と諭しています。苦しみの時は、実は神と語りあう時です。これは真珠の形成に譬えられるでしょう。貝の中に異物が入ることは、貝という小さな生命体にとっては耐えがたいことです。そこですぐに吐き出してしまえば、あの美しい真珠は形成されないでしょう。この痛みを受容し、自分の都合を放棄することによって真珠が形成されるのです。まさに、「痛み経て真珠となりし貝の春」です。自己放棄の場である、苦しみと忍耐の場所には美しいストーリーがたくさん生まれます。

24節以下で、イエス様自身が、ベルゼブル、つまり悪魔の頭だとよばれたのだから、弟子たちの場合にはそれ以上悪く言われるだろうとあります。ただ、イエス様はこうした批判や、迫害を恐れた様子はまったくありません。イエス様には罪が全くありませんから、自己中心的ではなく、常に神への感謝に満ちていました。そして、神の愛を知っていますから、この地上の物を失うことを恐れなかったのです。本当に畏敬すべきは、神なのです。人の眼は恐れの対象である「神に逆らう」人々にではなく、恵み深い神の愛の世界に向けられなければならないのです。

イエス様はさらに、わたしたちの眼を神の世界に向けます。当時、雀は一番安い犠牲の供え物として、1羽300円くらいの値段で売られていました。ただ、そんな雀でさえ、神のみ心がなければ空から落ちない。あなたはそれらの小さな生命体の存在以上に神のご配慮をいただいている。だから恐れる必要はない。ただ、神のご加護を信じ、自分の一度きりの人生を一度は手放しなさい。恐れから自由になりなさい。そして、さらに豊かになるために、派遣されて行って神の素晴らしさと愛を伝えなさいと命じられているのです。

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