閑話休題

町田の小6自殺とサガンの「悲しみよ こんにちは」

町田市の小6の女子児童が、昨年11月にいじめを受けたという遺書を残して自殺したそうです。残された父母の気持ちを思うといたたまりません。発表が10か月も後なのは、気持ちの整理がつかなかったからでしょうか。悲惨な出来事です。そして、いじめという陰湿な暴力がまだ減ってはいないのだと痛感します。ところで、最近フランソワーズ・サガンの人生を描いた「サガン、悲しみよこんにちわ」という映画を見ました。興味がわいたので、河野万里子訳の「悲しみよ こんにちは」を再読してみました。これは、1960年代に日本でも有名になった作品です。過去に読んだときは、単なるブルジョア階級の人々の恋愛小説ぐらいにしか思っていませんでした。しかし、今回は偶然に、小6自殺と関係ある事柄を発見したのです。年の功ということでしょうか。改めて読んでみて、執筆当時はまだ18歳だったサガンのみずみずしい感性が伝わってきました。自分にはもうそれがないのが残念です。ただ、前に読んだ、鈴木るりか著「さよなら田中さん」にも、サガンに勝るとも劣らない若者の感性が溢れていました。鈴木るりかさんも小学生のときに文学賞を受賞しています。「さよなら田中さん」の主人公も小6でした。さて、サガンの小説では、自由奔放なお父さんの愛人エルザと新しく登場した女性アンヌ、そして娘のセシルと彼氏のシリルの四者によって話が展開します。後から家にきて、父親レイモンの後妻になろうとしていたアンヌにセシルは圧迫感を感じます。アンヌは父親と同じくらいの歳でしたが、美しく、理知的で、すべてを合理的に処理する能力にたけていました。父親に似て、自由奔放なセシルには彼女の存在が息苦しかったのです。そして、このように独白しています。「わたしは先ほど終わった食事のことを思い出して、歯を食いしばった。恨めしさで深く傷つき、打ちのめされながら。そんな感情をもつことを、わたしはばかにしていたのに、笑いものにしていたのに・・・・そう、アンヌを責めたかったのはそこだ。あの人は、わたしが自分自身を愛せないようにしてしまう。幸福や、愛想のよさや、のんきさに、わたしは生まれつきこんなにも向いているのに、彼女がいると、非難や良心の呵責のなかに落ちこんで、心のうちでしっかり考えることもできなくなり、自分を見失ってしまう。」これは1954年の作品であり、フランスのことであり、70年近く前の出来事を描いているのですが、現代の小6自殺と無関係でしょうか。関係アリです。わたしたちの日本の社会でも、学校や生活環境をとおして、わたしたちは無数のアンヌに囲まれているからです。いじめだけでなく、社会のさまざまな規定によってわたしたちは縛られ、自己卑下に落ちこみ、「自分自身を愛せないように」なってしまうのです。感受性の鋭い世代は特にそうです。しかし、それだけではなく、多くの世代の人々が愛を失って苦しんでいます。家族の人にお茶をいれてほしいと頼んだのに、無視されたことで、老人が自殺したという話も聞いたことがあります。だから、このインターネット教会では、愛を伝えたいのです。生きるために。この世に暗い嵐が激しく渦巻いても、喜びを忘れないためにも。パウロは書いています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ信徒への手紙8章38節以下)わたしも自分の青年時代を振り返ると、生きていく望みを失っていた時に、キリスト教の宣教師に出会い、聖書の言葉に触れて希望がうまれたのでした。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一4章10節)この日本の社会で、悲しみが繰り返されないために、できるだけ多くの人に神の愛を知っていただきたいと願っています。もっと知りたい方は、「お問い合わせ」にメールを送ってください。きっと明るい人生が始まると思います。

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