「助けて」と言えない日本文化の闇
コロナの影響で、若い世代にも生活困窮者が増加しています。NPO法人などが、彼らの支援に苦労しています。そうしたインタビューなどを聞いて思ったことがあります。彼らの多くが、住む所も、食べる物もなくても「助けて」と言えないことです。最近報道された、旭川で凍死自殺した女子中学生の場合も同じです。生前に、彼女がインターネットで自分が受けているいじめの問題を相談した音声が残っていますが、それを聞くと、彼女も「助けて」と言えなかったことがわかります。それは何故でしょう。そこに日本文化の闇があります。彼女が話していたように、「人に迷惑をかけるから」なのです。そして、彼女は、人に迷惑をかけると後で叱られてしまうことが嫌だったのです。しかし、この論理は矛盾しています。自殺することは、家族や他人に迷惑をかける事にはならないのでしょうか。我が家でも子供がまだ小さかった頃に、夏休みには毎年海水浴のために伊豆に行っていました。海水浴とはいっても、大きなボムボートに子供たちを乗せて遊んでいたわけです。離岸流れが強い場所があって、浜辺からドンドン離れてしまうので、皆で力を合わせてオールで漕いでいた時でした。「スミマセーン」という声がしました。近くに、やはり、離岸流に流されて溺れかかった遊泳者がいたのです。早速、ボートで救出して無事に岸につくことができました。しかし、疑問は残りました。あの時、あの沖合で、あの人は何故「スミマセン」と言わなかったのだろうか。しかし、今回の女子中学生の自殺前の意見を聞いてわかりました。日本の文化では、「助けて」と直接言って、相手に迷惑をかけることは禁句なのです。そんなことをすると、あとで、周囲の人々からバッシングを受けることになります。むしろ、「スミマセン」といって、相手に迷惑をかけないなら手伝ってくださいと丁寧に呼びかけるのが正解なのです。こんな文化ですから、生活困窮者は助けを求めずに自殺し、いじめを受けたものも自殺してしまいます。日本はまだ世界有数の豊かな国ですが、自殺者数も世界最高水準です。何故なら、人生に行き詰っても「助けて」といえない文化の闇を持っているからです。聖書はどうでしょうか。わたしが行き詰っても、いつも励ましを受けるパウロの言葉があります。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されてもほろぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」(第二コリント4章8節以下)聖書は、わたしたちに、まず神に助けを求めるという、異なった文化を紹介しています。神に助けを求めることができる人は、神が創造した人間に助けを求めることもできます。残念ながら、現代の日本文化には神不在です。人間だけの社会力学に闇が潜んでいます。印西インターネット教会が伝えたいのは、呼べば答えて下さる神の絶対愛なのです。疑問のある方は、遠慮されないで「お問い合わせ」でご連絡ください。