今週の説教

キリスト教徒バッハの喜の信仰について学ぶ説教

「願いは叶う」     ルカ17:1-10

今日の旧約聖書の日課であるハバクク書2:4「神に従う人は信仰によって生きる」はローマ書1:17に引用されていまして「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあります。この信仰の重要性を何度も教えたのは、イエス様です。

「信仰があなたを救った」マタイ9:22、「あなたが信じたとおりになる」マタイ8:13、「あなたの信仰があなたを救った」マタイ9:22、「信仰の薄いものよ、何故うたがったのか」マタイ14:31、「もしからし種一粒ほどの信仰があれば、山も移る、あなたにできないことは何もない」マタイ17:20

出来ないことはないというのは、願いが叶うということです。もし、願いが叶わないならば、からし種一粒の信仰がないという事です。その前に、一日に7度悔い改める者を7度赦しなさい、と主は弟子たちに奨められました。何故かというと「つまずきは避けられない」からです。この「つまずき」は原語でスカンダロス、悪い結果という意味です。悪い結果は避けられない。どんな良い人でも、悪い結果を招いてしまうことがある。ただ、相手を赦さないことによってもっと大きな悪い結果を招いてしまうのです、とイエス様は諭しています。以前の赴任地でのことですが、九州のある教会で婦人会の人たちが誰かを批判していました、誰のことですかと尋ねましたが知らない人についてでした。いつのことですかときいたら30年前のことでした。30年前の事が赦せなくて批判していたのです。その当時から、もう25年くらいたっていますが、赦さなかった人たちの人生は残念ながら決して祝福されたものではありません。

弟子たちは、自分の信仰の小ささを自覚して、限界を覚えました。一日7回もゆるせない。何故なら、7は完全数で、限りなくの意味だからです。それは当然です。赦せると思うのが間違いです。本当の赦しは人間ではなく神から与えられるものです。礼拝の大切さもそこにあります。そこで、弟子たちはイエス様に願います。信仰を増し加えてください、と。人を裁くだけで、赦しに至らない戒めは、イエス様がおっしゃる戒めではありません。パウロは、「過ちを犯し罰を受けた者を赦さなければ、サタンのやり口にはまってしまう」と言います(Ⅱコリ2:10)。イエス様の教えと同じです。赦しのない裁きは、主の十字架の福音を消し、疑わせてしまうからです。他人だけでなく「自分の罪は赦されない…。」と考えるのも同じです。そのように十字架による罪の赦しを疑わせることは、悪魔の一番の願いであり、「つまずかせる」ことでもあります。

ルターは自分の救いについて疑い悩んでいたときがありました。そのころ、ローマ書1:17の「正しい者は信仰によって生きる」の言葉を日夜黙想していました。その時、彼はわたしたちが神の義によって、憐れみによって、信仰によって義とされるということを理解しました。受動的な義によっていかされることです。人間は生きている限り能働的な存在です。明日は、旅行にいこうとか、今日はこの仕事を仕上げようとか、考えていると思います。それは、神を知ることには無力です。何故なら口から出てくるものは心から出てくるからです。悪いものが心から出てきてこれが人を汚す(マタイ15:19)と書いてあるからです。この能動性のなかに、イライラや、悲しみ、ストレスが潜んでいます。何故なら自分の願いの実現が幸せの実現だという悪魔の幻を信じているからです。

ルターもある面では自分の中の汚れ、悪に悩んでいたのでしょう。しかし、「正しい者は信仰によって生きる」の言葉を黙想して彼には光が見えてきました。「戸はわたしに開かれた。わたしは天国そのものに入った。全聖書もわたしにたいして別の姿をしめした」と喜びをもって書いています。この喜びは終生消えることのない喜びでした。それは、ルターだけでなく、後の世代でルター神学を学んだ音楽家のバッハなども大きな喜びを発見して、終生そのなかに生きて素晴らしい音楽にしていったのです。自分ばかりを見つめていた者が、神を見つめるようになったのが信仰です。空の雲ばかり見つめていた人が、その雲のはるか上に輝く太陽を見詰めるようになったのです。太陽電池も、最近は曇りでも晴れと同じように発電できるようになってきたそうです。信仰電池でしょうか。

こうした発見と、ファリサイ派の信仰の誤りの違いは、自分の中から出てきたものか、それとも神から受動的に与えられたものかという点にあります。今日の福音書の中で命じられたことを行う僕の例をイエス様は語りました。これがまさしく受け身の例、受動態の典型です。主人たる神様が与える毎日の課題、試練、勤めを、当然のものとしてこなし、決して威張らない。「当然のことをしただけです」と自分に言い聞かせなさいとイエス様は諭しています。それは、同時にイエス様の実際の姿でもありました。

外から恵みが来るというのは、自分では予想もしていなかったけれども、豊かな恩寵を受けることがあるということです。わたしたちの利己的な願いや、自我が崩れ、消え去る時に、神の願いが成就します。ですから、わたしたちは喜んで失敗し、挫折し、敗北してよいとおもいます。いや、スカンダロン、悪い結果は避けられないのです。パウロは、第二コリント4章でこの世の神に心の目をくらまされている人々がいると書いています。わたしたちはむしろすべての苦難は、あたなたがたのためであるというパウロの言葉を信頼したいものです。

これを言うのはやすし、行うは難しです。人間には不可能です。しかし、悔い改めの方向転換をしてくださるのがイエス様です。信仰の重要性を教えたのもイエス様です。わたしたちの願いを遥かに超えて、試練を通して神の祝福が実現されると示してくださったのもイエス様です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

 

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