聖書研究

苦難の中でも人生を肯定的に生きる秘訣が使徒言行録に書いてあった(これは必読です)

使徒言行録4章23節-37節   文責 中川俊介

裁判を受けて、釈放されたペトロとヨハネは、彼らの脅しにひるむどころか、伝道の意志をさらに強くして仲間たちのところへ戻り、そして祈りました。迫害によって、人間的な運動ならば低迷しますが、神の聖霊の働きは、火に風が吹き付けるようなもので、その勢いを強くしたのでしょう。23節には、二人がそれまでの状況を仲間に詳しく告げたことが記録されています。そして、人々は恐れるどころか、神を賛美して祈り始めたのです。「それはどんな弱い者からも、力を引き出すことのできる、神の御業にほかなりません。」[1] 試練は恐怖と絶望を生み出す原因となることもあれば、その試練を乗り越えさせてくださる神の賛美へと導くこともあります。前者は人間的思考法、後者は聖霊に導かれた思考法だといえます。わたしたちはどうでしょうか。人生の試練と困難とを、神の恵みという、肯定的な視点からとらえているでしょうか。皆で考えてみましょう。

ここで、他の弟子たちの反応をみてみますと、彼らが心を一つにして祈り始めたことがわかります。これも神の霊の働きでしょう。普通ならばバラバラなのが人間の心です。創世記11章にあるバベルの塔の話に、「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。―中略― 主がそこで全地の言葉を混乱させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされた」、と書かれています。ここから明らかなように、人の心は一つにはならないという定めにおかれたのです。しかし、弟子たちの間では、バベルの呪いは解けて、一つの思いを抱いて共に祈ることが可能になりました。教会で主の祈りや信条などを、声を合わせてとなえるのもこの象徴でしょう。つまり、新しい時代の到来のしるしと言えます。「ルカが教会の最も古い祈りの一つを記録したことは幸いである。ここに『あなたの聖なる僕』というキリスト論的定型句が繰り返されていることは注目に値する。」[2] 古い制約が解けて、キリストによる自由が生まれたのです。「すべてのことの背後に、神の御手の働きがあることを信じている人々にとっては、喜びにつけ悲しみにつけ祈らずにはいられません。」[3] その彼らが祈り賛美したのは、天地の創造主の働きでした。そこでは、専制君主のような神の支配権が強調されています。その対極にあるのが僕の思想です。神の概念は僕の概念と対になっているのです。つまり、神を信じることは、自分が低い立場の僕であることを受け入れることなのです。「この支配力は、万物の創造のさいに見られ、ここでは典型的な旧約聖書の発想で語られているのである。」[4] わたしたちの神信仰はどうでしょうか。皆で考えてみましょう。

25節では、この賛美が先祖ダビデの言葉と預言に関するものに移っていきます。メシアの預言です。そして、これもまた聖霊の働きなのです。25節後半の詩編の引用は、詩編2章1節からのものです。多少の言い回しに違いはありますが、ほぼ原典の主旨を伝えたものだと言えるでしょう。そこで語られていることは、地上の諸権力の無力さと、主への信頼の大切さです。そして、ペトロとヨハネが裁判で経験したことは、まさにメシアに逆らう地上権力の姿でありダビデ預言の実現でした。「彼らがキリストに逆らって立ち上がったとしても、その始めたことは、崩壊する。」[5] ですから、彼らはこの迫害を偶然のものとしては考えておらず、何百年も前にダビデを通して語られた神の言葉、神の救いのご計画が実現したものとして、これによって励まされ、慰められ、神を賛美したのです。わたしたちはどうでしょうか。黙示録11:13に「そのとき、大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、この地震のために七千人が死に、残った人々は恐れを抱いて天の神の栄光をたたえた」と書いてありますが、現代ならば、自然災害の悲惨さだけに目がいって、「神の栄光をたたえる」というような賛美は生まれてこないかもしれません。しかし、人間の利害ではなく、災害や迫害さえも救いへの道として用いる神の視点を受け入れた時から、聖霊の働きが始まるわけです。「神の与えたもうものは、死であれ、生命であれ、悲しみであれ、喜びであれ、喜んで受けようとしたのです。」[6] この受け入れる心こそ、神の恵みの賜物です。わたしたち自身の信仰を再点検してみましょう。

27節では、今回の弾劾裁判だけではなく、イエス様の裁判のことも言及されています。まさにそれは、歴史的「事実」だったのです。国の指導者が異邦人と協力して神に逆らい、メシアを迫害したのです。また、弟子たちがエルサレムで経験したことは、まさにこの預言の現実的な一部でした。信仰が架空のものではなく、地に根を張ったものになるには、まさにこの「事実」が必要だったのです。そして使徒たちもこの預言の具体的な実例となったということが彼らの勇気の根源になったのです。ルターも試練について述べており、「それはあなたがたに、神のみことばが、いかに正しく、いかに真実で、いかに甘く、いかに愛すべきで、いかに力強く、いかに慰めにみちたもので、それは至高の知恵であることを知らせ、理解させるばかりか、そのことを体得させるのである」[7]、と語っています。逆に言えば、試練なしには神の御言葉は体得されえないのです。

28節にも繰り返されていますが、「御手と御心によってあらかじめ定められていたこと」がすべて実現されたのです。ここで、「御手によってあらかじめ定められていたこと」というのは興味ある表現です。よく、昔の絵画にある伸ばした神の手を想起させるものです。「神はそのことをすべて見通しておられ、そのすべての上に悠然として構えておられるのです。」[8] わたしたちも、ものごとにあわてることなく、このような悠然とした姿勢を身につけたいものです。神における泰然自若ともいえるでしょう。

29節から、語調が変わります。神への祈願の言葉です。迫害を恐れずに喜んで福音宣教できるように祈願しています(エフェソ6:20参照)。自分たちの力や決意によらず、神の励ましと導きに全身全霊を委ねている様子がみてとれます。わたしたちはどうでしょうか。まだ、自分で解決しようと試行錯誤しているのでしょうか。それとも、弟子たちと同じように、神の助けこそが全てであると確信し、そこに委ねているのでしょうか。皆で考えてみましょう。

さらに、弟子たちは、神の介入と、イエス・キリストのみ名によって、病気の癒しや神の奇跡が行われるように祈願しました。彼らの祈りは、ユダヤ教の祈祷書によるものではなく、自由祈祷のようにみえます。そして、その祈りは、単なる願いではなくイエス様が教えたようにイエス・キリストのみ名によって行われたのです。み名によって祈りなさいと教えられていたから、み名によって癒しと奇跡を祈り求めたのです。信仰と祈りがイエス・キリストの教えから離れるときに、わたしたちは救い主の信仰を失い、律法学者のように自分の義を誇りに思う者に変節してしまうでしょう。わたしたちの信仰は十字架のイエス様に始まり十字架のイエス様によって完成されるのです。そして、イエス様の宣教方法がわたしたちの宣教方法となるのです。

この点を考えると、現代の教会は、どのくらい真剣に癒しと奇跡を祈り求めているだろうかという疑問が生じます。もしかしたら、教会は理知的な神学に傾きすぎていて、初代教会の初心を忘れているかもしれません。わたしたちも、真剣に癒しと奇跡を祈り求めていきたいものです。そして、弟子たちの場合には、祈りの後に不思議な現象が起こり、地が揺れ動き、ある種の異言を皆が語り出したのです。「旧約聖書において、これは神の臨在のしるしのひとつであり、祈りに対する応答として考えられたことだろう。」[9] 彼らは願いが聞かれたという確信を与えられたのです。人間が行動主体の時に罪の影響が生まれますが、彼らの存在の中心に神の霊が支配したのです。「これはある面ではペンテコステの日に起こった事を再び想起させるものである。」[10] 別の表現を用いるならば、この場面で聖霊降臨における一連の出来事が完結したということです。不思議な現象も奇跡と言えば奇跡でしょうが、人間の罪の根源である自己中心性が終焉して、心の中心に御国の到来が起こることこそ最大の奇跡と言えるのではないでしょうか。弟子たちはイエス様と同じように神の僕となり「大胆に」神の言葉を語り始めたのです。この記録を記述しているルカも、同様に神の慰めを受け、迫害下で伝道を続けていたのです。

これ以降、新しい事態が生じました。それまでも、弟子たちは互いに助け合ってエルサレムで暮らしていたようですが、32節にあるように、自己中心性から解放され、バベルの呪いからも解かれ、一致した心を神から与えられた人々は、持ち物さえも共有し始めたのです。所有する欲ではなく、与える愛が支配しはじめたということです。

33節以下には、新しい共同体の様子が生き生きと描かれています。「イエスを信じた者の群は聖霊で満たされ、みな同じ思となり、兄弟姉妹としての愛に結ばれた。」[11] 最優先されているのは、主イエス・キリストの復活の証しです。「主はよみがえられた」というメッセージが中心でした。そこには聖霊によって付与された力がありました。また、彼らが周囲の者からも尊敬を受けていたということは、まさにイエス様の愛の教えを実行していたということでしょう。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)、というイエス様の言葉の成就でもあります。ただこれは人間中心ではありません。「聖書はどこにも人間の品性の立派さや、その道徳性の完全さなどを、述べていません。それは良いにつけ、悪いにつけ、すべてそうであります。聖書は、いつも神の恵みの業を、また聖霊の働きとその実りを語っているのです。」[12] 地に足の着いた、愛に根ざした信仰生活が始まりました。そして、互いに助け合い、貧しい人たちと苦難を分かち合うようになりました。「すべての者がこのように強く、決定的な愛の心に引き込まれていたことを強調しているのである。」[13] 福音宣教が空虚なものにならないように、経済的支えも考慮したのです。これは、申命記15:4の言葉の成就でもありました。「神の民の中に貧しい者はいなくなるという旧約の約束は、教会において、比較的裕福な会員が惜しみなくささげることによって実現されたのです。」[14] 35節には、人々が持ってきたお金が「使徒たちの足もと」に置かれたとかかれています。「教会は大きくなるにつれて、ここに秩序と一致が不可欠となった。したがって、その金は使徒たちにゆだねられたのである。」[15] 使徒たちは神に立てられた人々でした。ですから、これはお金が神のもとに集められ、愛の施しのために用いられたことを意味しています。また、36節には、具体例として個人名までだして、どのようにこの働きが行われたかが説明されています。なぜ、キプロス島出身のヨセフ(バルナバ)の名前が出てくるのかは不明です。ただ、彼が遠隔地の出身で、なおかつ祭司の家系であったレビ族の出身であったこと(レビ人というのは律法によって土地の所有を禁じられた部族でした)、使徒たちから親しみを込めたバルナバ(慰めの子)というあだ名で呼ばれていたことなどを考えると、後にパウロの導き手として活躍するこのような人物でさえ、この時に神の共同体の一員として恵みの内に加えられたと伝えたいのでしょう。また、それは教会内部にも古い自我との戦いがあった事の対比として語られています。わたしたちも、自我の子ではなく、神のご計画に励まされる慰めの子として生きる恵みが与えられていることを忘れてはならないでしょう。

[1] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、65頁

[2] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、59頁

[3] 尾山令仁、「使徒の働き上」、羊群社、1980、156頁

[4] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、105頁

[5]   シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、59頁

[6]  前掲、蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、67頁

[7]  宝珠山幸郎編「ルターのことば」、聖文社、1983年、100頁

[8] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、158頁

[9] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、107頁

[10] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、107頁

[11] 矢内原忠雄、「聖書講義1」、岩波書店、1977年、620頁

[12]  前掲、蓮見和男「使徒行伝」、71頁

[13]  前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、62頁

[14]  前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、109頁

[15] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、63頁

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