野村克也監督の教訓
野村克也監督を偲ぶ会が来年の2月に神宮球場で開かれるそうです。亡くなってからもう一年以上たちますが、あの笑顔と、にくめない毒舌を懐かしく思う人は多いのでしょう。わたし自身も、野村監督が書いた本を読んだこともあります。彼の人生では、幼い時に父親を戦争で亡くしただけではなく、貧困の母子家庭のなかで、人生の困難にめげない姿勢を身に着けたといえるでしょう。そして、野球選手になったのも、甲子園で大活躍してスカウトされたというような順風満帆なものではなく、底辺から這い上がっていたというものでした。だからこそ、人の苦しみを理解することができたのでしょう。そして、人生にはタイミングが大切だと言っていたそうです。プロ野球に入る前もそうですが、プロ野球に入ってからの彼の人生でも、例えば、正捕手が次々と試合にでられなくなり、四番手としてやっとタイミングよく日の目をあびたという経験もあります。このタイミングに関しては、聖書にもいろいろな事例が記載されていて興味深いものです。第一は、ヨセフのタイミングです。兄弟の恨みを買ったヨセフは、奴隷としてエジプトに売られました。無実の罪で訴えられて牢屋に入れられたヨセフでしたが、タイミングよく、そこで王様の不満を買って牢屋に入れられた料理長の夢を解き明かしたことで認められ、さらにこの料理長の助けで王様の夢を解き明かす機会に恵まれ、そのことをきっかけにして、エジプト政府内で高い地位についていったのです(創世記40章以下参照)。第二は、モーセのタイミングです。出エジプトの後、エジプト軍に追われてモーセに先導されたイスラエルの民は海岸まで逃げました。後ろには最強のエジプト軍、前には海、という絶体絶命の場面で、モーセは神に助けを祈りました。すると、タイミングよく、海が二つに分かれ、その間に乾いた土地が現れ、安全に海を渡ることができたのです。その後で、エジプト軍も海を渡ろうとしましたが、その時もタイミングよく海がもとに戻ったので、エジプト軍は追跡を断念しました(出エジプト記14章以下参照)。第三は、ダビデのタイミングです。自分が仕えていたサウル王の恨みをかって殺されそうになったダビデは、王の息子のヨナタンの助けで、タイミングよく王宮を脱出することができたのです(サムエル記上20章以下参照)。こうしたタイミングを、偶然だとする人もいるでしょう。しかし、わたしにはそれが「神の時」のように思えます。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」(口語訳聖書;伝道の書3章11節)もし、野村監督がまだ生きていて、この聖書の箇所をお見せすることができたら、きっと深く同意してくださることでしょう。そして、大切な事は、野村監督だけではなく、わたしたち一人一人にも、神は美しい時を与えて下さっているということです。