閑話休題

小室圭さんの不合格ー忖度しないアメリカ社会

小室圭さんがニューヨーク州の司法試験に不合格だった。この件の報道を見ても、日本側の報道では、最初は合格者名簿に名前が載っていない程度のものだった。そして、まだ結果不明のものが数名いる、というような忖度した表記だった。そして、不合格が確定してから、やっとそれを知らせている。あの時点、つまり結果不明者が数名いる、という状況で、日本社会なら、判定者が会議を開いて忖度し、小室圭さんを合格にしていただろう。しかし、アメリカ社会は違う。これは、わたしがアメリカの神学校に在学中に経験したことでもある。その当時、自分が学んでいたミネソタ州のルーテル教会の神学校は、クオーター制度と言って、年に4学期ある制度を取っていた(日本の大学はセメスター制度で年に二学期)。これは、学生にとっては厳しいもので、中間試験が終わったらすぐに期末試験、これの繰り返しが年に4回繰り返されるわけだ。そんなあるとき、期末試験で不可と可をとってしまった。日本の大学なら一教科だけ再履修すればよい状況だ。ところが教務課に呼ばれてしまい、次の学期で不可か可を取ったならば退学処分だと告げられてしまった。自分は外国人留学生だし、言語のハンデもあったが、アメリカ社会ではそれに対する忖度はなかった。万人平等だった。おそらく、小室さんの場合も同じだろう。これは聖書の思想です。古代社会は、まさに権力者会であり、権力者に対する忖度の文化が蔓延していました。しかし、聖書をもつユダヤ人社会では、王権より神の権威が優先していました。だから、国王に対して預言者たちは一切忖度せずに批判的意見を突き付けることができたのです。今から500年ほど前の宗教改革も同じです。ローマ法王の神の名を借りた最高権力にも、ルターは怖じることがなかったのです。聖書にはこう書かれています。「主は世界を正しく裁き、諸国の民を公平に裁かれる。」(詩編88編9節参照)ですから、わたしたちも忖度の必要はないのです。おそらく、日本のような前近代的な忖度社会では、預言者のような発言をしたら、憂き目にあうかもしれません。しかし、最高の権威者である神ご自身は喜んで下さるはずです。考えてみれば、現在の公明党の母体である創価学会とは違って、日蓮宗の創始者である日蓮も忖度はしない人でした。彼はそのために何度も迫害されましたが、そのたびに神の助けを受けています。そうした姿勢を現代の公明党も取り戻してほしいものです。

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