聖書研究

サウロからパウロへの大変身から学ぶ―神は人間に無限の可能性を与えている

使徒言行録8章1節-25節  文責 中川俊介

ステファノの殉死のあと、ルカはサウロ(後のパウロ)の働きに焦点を移していきます。そして、サウロのありのままの姿を伝えながら、サウロの個人的な業績や信仰心によってではなく、神の憐みによって、彼が清められ福音伝道の器とされたことを記述します。(ガラテヤ1:13参照)ですから、1節にあるように、サウロがステファノの殺害にも賛成するような反キリスト教の最先鋒だったことは、忘れてはならないのです。「サウロはヘブル名で、パウロはローマの名であります。当時、このように二つの名前を持っていることは決して珍しいことではありませんでした。」[1] それにしても、ここでサウロが登場することは、のちに彼が神の業に用いられるようになる伏線ともいえます。

さて、ステファノの処刑と共に、エルサレムでは大迫害が始まりました。処刑をきっかけに、人々は神の裁きを恐れることなく、迫害を開始したのです。その時の、使徒たちの対応はどうだったでしょうか。使徒たちは危険を覚悟の上、エルサレムに残り、他の信徒をユダヤやサマリヤにさらせたのです。「これは奇妙に見える。通常は、問題があると考えられる組織は、その首謀者を捕え、処刑することによって根絶やしにされるからである。」[2] おそらく、彼らが危険を承知で残ったのも人間的な知恵からではなく、祈りの中で神の指示を求めた結果でしょう。困難なときであればあるほど、神の導きが大切です。一方で、ステファノの埋葬をした人々もいました。「墓を提供するだけでなく、おおやけに死者の追悼をステパノのためにあえて行う者も、まだいたのである。」[3] 彼らの悲しみは深いものでした。それほど、ステファノは愛されていたのでしょう。また、犯罪者の埋葬は許可されていたが、「冒涜罪で石打ちにされた者の葬りは、ユダヤ教の規則では、禁じられていましたし公に追悼を行うことも禁じられていました。」[4] わたしたちも、ステファノのように人から惜しまれるような生き方をしたいものですが、それにはどうしたらよいのでしょうか。皆で話し合ってみましょう。

ここに登場したサウロのことですが、ステファノ殺害に加担しただけでなく、信者の家を襲い、教会を破壊し人々を投獄していたようです。「彼の確認に基づいて人びとは裁判に引き渡されるべきか、否かが決定された。」[5] ですから、サウロは迫害における重要な役割を担っていたといえるでしょう。そして投獄は処刑を目的としたものでした。その時の彼の気持ちはどのようなものでしょうか。おそらく、迫害された者の痛みではなく、自分たちの神聖なユダヤ教を邪悪な新興宗教であるキリスト教から守るために必死だったことでしょう、人間が一つの価値観を固守する時に危険な状態になることがよくわかります。自己吟味が必要な部分だと思います。またこれが、のちに愛の教えを説いたパウロの若い時の姿だと誰が想像できたでしょうか。神は無から有を生み出すことのできる方だと思わざるをえません。おそらく当時の人々もそう感じたでしょう。

4節では、地方に逃げて行った人々が、福音を伝えながら旅したことが書かれています。彼らは教会を拠点として旅していったのです。「そのさい使徒の伝道計画や展望や、はたまた突然目覚めた伝道への情熱ではなく、とんでもない困窮が、激しい迫害と困難が、ただ神の御手にあって、祝福の道具となったのであります。」[6] 現代では、友人にさえ福音を伝えることは容易ではないのに、当時の人々はどのように福音を伝えたのでしょうか。その一例として、フィリポの話が出ています。フィリポの旅は、イエス様も辿った事のあるサマリヤの地でした。エルサレムから見れば北部にあたります。南部のユダ地方と違って、北部では様々な異教の影響がありました。それは、かつてアッシリアに征服され、「アッシリアの王サルゴン二世が他の地域で征服した人々をイスラエルに移住させた」[7]ので雑婚がすすみ、外国の風俗習慣が広がっていたからです。その伝道は、一般的な神の教えではなく、キリストを伝えることでした。救い主の信仰です。彼の証言自体は異教の人々や、ユダヤ教の人々にも理解しにくいことがあったと思いますが、「サマリヤの神学の根本には将来の解放者の到来がふくまれていた」[8]ので、奇跡が行われていたこともあり、人々は興味をもってフィリポの話に耳を傾けましたのでしょう。「この『耳を傾けた』ということばは、『引きつけられて、われを忘れる』という意味のことばです。」[9] 自己を忘れるところに宗教の本質があるように思います。宗教というものは、教理だけではなくそうした現実性が必要だと考えさせられます。そして、7節にあるように、フィリポの伝道では、汚れた霊からの癒し、障害の癒しなどが行われていました。その背後には熱心な祈りがあったことと思います。そのことは、宗派をこえて、8節にあるように、町の人々の喜びとなったのです。フィリポの伝道は押し付けや強制ではなく、人々が悩んでいたものから解放され、あたかも暗闇に日が昇るかのような状況だったと思います。やはり、伝道の根本にあるのは、神における解放の喜びでしょう。現代の社会では、教会はどのような喜びを伝えることができるか皆で考えてみましょう。

さて、奇跡的な働きに関しては、それはキリスト教の独占物ではありません。他の宗教でも奇跡はあるわけです。9節に登場するシモンという人物もそうした奇跡を行う人でした。「このような宗教的体系と清めの術は、外面的には福音に似て見えた。」[10] 表面的にはキリスト教の奇跡と変わりませんが、大きな違いはシモンが自分を「偉大な人物」であると思っていたことです。奇跡も自己主張とか自己追求の手段だったのです。諸宗教とキリスト教徒の違いは、拡大する自我と縮小する自我の違いです。ただ、自己宣伝の上手な者は一般社会では認められやすいものです。シモンもそうでした。大変な有名人だったわけです。11節には、人々は長い間、シモンの魔術に幻惑されていたとあります。ほかに選択肢がなかったわけですから、人々はシモンの人間的な魔術を信じていたのです。しかし、フィリポがサマリヤに行くと事態は一変しました。12節にあるように、フィリポの奇跡は魔術ではなく、神の国の到来と、イエス・キリストの救いを告げるものでした。そして、この福音を信じた人々は洗礼を受けてクリスチャンになりました。驚いたことに、魔術師シモンも洗礼を受け、フィリポに従ったということです。

14節を見ると、サマリアでの出来事は、エルサレムに残った使徒たちにも伝えられたようです。サマリア伝道はイエス様の願いでもあったことでしょう。イエス様は常に社会の底辺にいる人々や、ユダヤ人から蔑視されていたサマリアの人々に福音の喜びを伝えていました。その働きの継承者としてフィリポが活躍したのです。そこで、驚くべきことにエルサレムの使徒グループは、自分たちの指導者であるペトロとヨハネをそこに送ったのです。一番大切な人物を伝道の最先端であり、また危険な場所でもあるところに送ったのです。その決断には、多くの祈りがささげられたことでしょう。「かつてはサマリヤの一つの村を、天火を呼びおろして滅ぼそうといきまいたヨハネが、今やイエスの福音によってサマリヤ人を暗雲より救い出す恩恵の使命をおびて訪れたのです。」[11] これも福音による大きな変化です。先に見たように、最初、サマリアの人々はフィリポの奇跡に興味を持っただけでした。しかし、それをきっかけとして彼らは福音を聞き、神の言葉を受け入れたのです。

15節の記述によると、ペトロとヨハネの派遣は聖霊の付与のためでした。ですから、この重要な使命は、誰でもよいという事ではなく、イエス様の最愛の弟子であったペトロとヨハネでなければならなかったのです。神の言葉を受け入れたが、聖霊が降っていなかったので、新しい信者はまだ知恵と勇気をもって伝道することはできていませんでした。聖霊が必要でした。それも人間的な願いではなく、祈りの実だったのです。迫害を生き延びてきた弟子たちは、すべてにおいて祈りをもって導きを求めることが生活の一部となっていたことでしょう。人間ではなく神を第一にすることです。ある面では、そのことが徹底するというのが聖霊の降臨であるような気がします。皆さんはどのように考えるでしょうか。話し合ってみましょう。

17節には、人々の資質によらず、ペトロとヨハネが御言葉を信じた人々の上に手を置くと聖霊が与えられました。これは不思議なことでした。聖霊を受けた人々は、おそらく、異言を語ったり奇跡を行ったりしたことでしょう。ですから、サマリアでの伝道は、奇跡に始まり、御言葉の宣教、洗礼、そして聖霊の付与に進んだのでした。魔術師のシモンもこの出来事を目撃しました。そして、彼もこの聖霊付与の特権を得たいと思いました。それほど、この出来事は素晴らしいものだったのでしょう。ですから、お金を払ってでもこの能力を得たいと思ったのでしょう。「このようなことから、教会における聖なる権能や職務などを金銭によって売買することを『シモニア』と呼ぶようになりました。」[12] それでも、シモンとしては真剣なことだったのでしょう。20節にペトロの返答が出ています。フィリポの場合にはシモンの追従を許していたのですが、ペトロは厳しく対応しています。シモンがお金で神の特権を入手しようとする態度に対して、決定的なノーを告げています。滅びてしまうが良いと宣言したのです。この言葉も、ペトロの個人的な感情から発したものではなく、祈りによって導かれたものだと思われます。21節に、シモンの心が神の前に正しくない、と書いてあります。それは、ある面で、アナニアとサフィラの偽証事件に似てないとも言えないでしょう。「いずれの場合も、虚栄と金銭とがいっしょに働いていた。」[13] ただ、「この記事は洗礼を受けた者が犯す深刻な罪でさえ赦される可能性を示している」[14] この時にペトロはシモンに厳しい警告をするだけではなく、悔い改めの勧めと赦しの可能性について告げています。思うに、福音伝道とは滅ぼすためではなく救うためなのです。23節に、ペトロがシモンをどのように考えていたかがあらわされています。まさに、腹黒い人間だったのです。逆に考えると、それだからこそ、救いの福音が伝えられるべきなのでしょう。

これを聞いて、シモンは悔い改めたと思われます。24節では、シモンがペトロに嘆願しています。ペトロはシモンに祈れと言ったのですが、シモンはペトロのとりなしの祈りを求めています。自分には祈る力さえないという自覚によるのか、それともペトロまかせなのか判断しにくい点です。彼はすでにアナニアとサフィラに起こった事などを伝え聞いていたのかもしれません。それはともかく、ペトロの強い言葉によって、シモンの自我が砕かれ、自己の非を認めたことは確かです。きっとこれは、伝道のめざましい成果として語り継がれたものでしょう。有名な魔術師さえ、悔い改めて従ったとするならば、地域の人々に対するその影響力は絶大なものだったと思われます。「このルカによる記事はまた、水の洗礼と聖霊の洗礼の区別についての論に導くのである。」[15]

25節に書かれていますが、ペトロとヨハネのサマリア滞在は一時的なものであって、サマリアでの福音宣教と聖霊の付与の働きに区切りがつくと、彼らは迫害の地であるエルサレムに帰っていったのです。いまや、彼らが怖れるものはなにもありませんでした。福音宣教を止めることは誰にもできませんでした。それも、聖霊の顕在のしるしといえるでしょう。キリスト教が広まっていったのは言うまでもありません。それには、このようなエピソードが隠されていたわけです。わたしたちの人生もまた、宣教の出来事の歴史であると言えるでしょう。

[1] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、123頁

[2] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、79頁

[3]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、101頁

[4] 尾山令仁、「使徒の働き上」、羊群社、1980、291頁

[5]  前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、101頁

[6]  前掲、蓮見和男「使徒行伝」、124頁

[7] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、81頁

[8] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、154頁

[9] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、304頁

[10]  前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、104頁

[11] 矢内原忠雄、「聖書講義1」、岩波書店、1977年、665頁

[12] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、310頁

[13] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、108頁

[14] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、160頁

[15] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、83頁

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