竹内睦泰著、「超速!日本史の流れ」、ブックマン社、2000年
ステイホームのおかげで読書の時間ができた。久しぶりに、日本史を通観してみたくなって、受験用のテキストを購入した。それも、「超速!」とかいてあったので都合がいい。寝る前に読もうと思った。本の中には2時間で完読できると書いてあったが、自分の場合には3時間かかってしまった。途中で疲れを覚えたのでやめようと思ったのだが、その日のうちに読了してよかった。全体像がつかめたような気がした。もともと、自分は学生時代に西洋史学の専攻だったので、歴史は嫌いではない。しかし、人物名や出来事の数が多くて煩雑である。ただ今回は、楽しみながら、日本の歴史の流れの鳥瞰図のようなものをつかめればいいと思って読んでみた。すると、意外な発見があった。この本の文末にあった暗記表が役立つことがわかった。まず、歴代天皇とか将軍の順番と名前を憶えて、それに当時の出来事を付加させていくのだ。この方法を学生時代に知っていたら、もっと点が取れていたかも知れない。ただ、この本の全体を再考してみて、日本の歴史の観点と、歴史に関する試験の要点は、「時代の指導者」を中心としたものだと感じた。おそらく、世界のほかの国の歴史観も同じようなものだったのだろう。それに異論を唱えたのは、オクスフォード大学で歴史学を教えたアーノルド・トインビー博士だ。彼はそれまでの国家を中心とした歴史観に疑問を持ち、文化を中心とした歴史観を提唱した。わたし自身は、「超速!日本史の流れ」を読んでみて、これはまさに国家を中心とした歴史観が基本にあると思った。だから、各時代の政治的指導者の名前を暗記すると理解しやすいのだ。しかし、わたしは、文化が中心の歴史観よりもさらに掘り下げて、民衆中心の歴史観が必要と思った。カール・マルクスは、文化や社会は上部構造であって、それの基盤となる下部構造は、経済活動であると分析した。これは正しいと思う。日本の歴代政権もこれによって変遷している。例えば、公地公民や律令制は天皇国家の基盤となったが、その後に、荘園や守護地などによる土地の私有化がでてきて、経済基盤の変化が起きると武家社会が興隆した。ただ、この経済活動の起因となっている、一人一人の生活に着目する歴史書はあまりない。その点で、聖書は興味深い。聖書は宗教書だと思っている人もいるが、基本的には歴史的な文献だと思う。ここが、仏教の経典とは違うところだ。旧約聖書の中でも、列王記や歴代誌などは、確かに国家を中心とした歴史観に貫かれている。ただ、その中にも預言者という個人の活動が細かく描かれていておもしろい。新約聖書は、マクロな歴史ではなく、ミクロな民衆の歴史に着目している。わたしの好きな個所の一つは、寡とレプタ二枚の献金の話しだ。「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金をいれるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」(ルカ福音書21章1節以下)これは、まさに民衆の歴史であると思う。これから世に出る若い歴史家たちには、「民衆による民衆のための、民衆に関する」歴史書を書いてほしいと願っている。