印西インターネット教会

人生の諸問題は神の義によって解決することを学ぶ説教

「イエスの弟子たち暮らす司祭館」   ルカ5:1-11

今日の日課はイエス様の弟子たちについてです。わたしたちも聖書的に言うとイエス様の弟子たちです。ただ、現代社会でとても弟子らしいのは神父さんたちでしょう。家族の縁とか、社会の縁をすてて、100パーセントイエス様にお仕えしているからです。説教題にある、神父さんたちの住む司祭館には、一度行ったことがあります。以前、ルーテル学院大学がカウンセリング合宿を行ったことがありました。場所は、群馬県の桐生でした。そこから、わたらせ鉄道という線があって、足尾銅山や日光の方につながっています。そのカトリックの司祭館にはとても親切な神父さんがいて、冷蔵庫の中のものは何でも使ってくださいと言いました。あとで、冷蔵庫を開けてみて驚きました。そこには、ビールやワイン、チーズやハムなど、お酒が好きな人には嬉しいものがギッシリ詰まっていました。司祭館というと堅苦しそうなのに、違うのですね。ドイツの修道院に何年か入っていたルーテル教会の牧師さんの話も聞いたことがあります。そこでは、普通の教会生活以上の親密な交わりがあったと言っていました。

さて福音書の日課は、イエス様の弟子たちが、普通の暮らしから、伝道生活に導かれた様子を語っています。それから三年間、彼らはイエス様と一緒に司祭館にいるような共同生活を送ったわけです。彼らは毎日、どんな生活をしていたのでしょうか。

不思議なことに、イエス様の最初の弟子たちは漁師という仕事を持っていたのに、それを捨ててイエス様に従いました。特に仕事がいやだったので転職したのではありません。現在でもそうですが、ガリラヤ湖といえばペトロの魚というクロダイに似た魚がたくさん取れます。イエス様の弟子たちも、弟子になるまでは、そこで漁業権を持っていて、十分に生計をたてていたと思われます。彼らが働いたガリラヤ湖の西岸には、ティベリアというローマ様式の大都市がありました。ここで売って現金を得るために、ペトロたちは日夜、魚をとって暮らしていたのです。逆に、ティベリアでの需要が減れば、価格は下がりますから、干物にして、もっと遠くの都市に輸送したそうです。昔の記録には、ローマ帝国の首都であるローマでもペトロの魚の干物が売られていたようです。古代社会の物流もすごいものです。また、仕事を続けるには、網も修理しながら使わなければなりません。大きな魚がかかるのは歓迎ですが、その漁で網に穴ができ、魚が逃げてしまえば、経費だけかかって利益はありません。アメリカのヘミングウェイという作家が書いた、「老人と海」という名作があります。これは、年老いた漁師が広いメキシコ湾で巨大なカジキマグロを釣った話です。3日間かけて釣りあげたマグロは大きすぎて船に上げられず海の中に入れたまま引いて帰ってきたら、サメの大群に襲われて、港に着いたときには頭と骨だけになっていたという話です。さすがに、陸の湖であるガリラヤ湖にはそんな大きな魚もいませんし、サメもいません。しかし、今日は漁に行けても、次の日からは暴風雨が続いて漁に出られず、収入が途絶えてしまうような不安定なことはあったでしょう。つまり、「老人と海」の場合も同じように、人生には次から次へと難題が飛び込んでくる可能性をもっているのです。それは、いつも変化します。この状況が2千年たった現代でもかわらないからです。コロナ禍も人生の暴風雨のようなものではないでしょうか。

さて、人生には試験問題も提出されます。それは、わたしたちは、何のために生きているのということを問う試験問題です。その昔、東京工業大学の数学の入試問題が4題だけだったそうですが、人生の試験では1題だけです。その答えを知らない場合もあります。イエス様に出会う前の弟子たちも、毎日の小さな問題解決に追われていただけで、人生の大問題、つまり目的を知らなかったと思います。

わたしたちも、仕事をしたり、勉強をしたりするのは、人生の手段であって、目的ではありません。わたしたちが、食事をし、住み、暮らすのは衣食住といいますが、それも目的ではないはずです。イエス様は言いました。何を飲もうか何を食べようか、何を着ようかという日々の必要は、大切でなくはない。しかし、第一目的ではない。第一目的とは神の義を求めることだと教えました。この神の義を求めるならば、衣食住は必ず満たされる。では、神の義とは何だと思いますか。人生の、仕事やスケジュールや、衣食住などよりも大切な、神の義とは何でしょうか。イエス様は神の義に生きた人でした。神の義とは、難しいことではないのです。神の義とは「神様のみ心」という意味です。イエス様に出会う前の弟子たちは、「わたしはこう思います」の人々でした。それは心に空白があり、目的のない空虚な人生だったろうと思います。

イエス様は、弟子たちを招くことによって彼らに、「神様のみ心」という大きな目的を与えると同時に、毎日の生活の糧を与えました。わたしたちが、イエス様の弟子たちとして教会で礼拝しているのは、礼拝を通して、イエス様がわたしたちに「神様のみ心」という大きな目的を与えるためです。もちろんわたしたちは神父さんたちの司祭館に住んでいるわけではありません。しかし、神父さんたちと同じように、み言葉を通して、「神様のみ心」という大きな目的を与えられているのです。

さて、日課の3節にはゲネサレト湖畔でシモンの持ち船に乗ったとあります。これはマグダラのマリヤの町であるマグダラに近い場所です。そして、舟から岸に集まった群衆に説教したのです。この時点では、まだ弟子たちは自分たちの生活を捨ててはいません。弟子たちが衣食住に大切なものを捨てたキッカケは何だったのでしょう。それは漁でした。彼らが一晩中労苦してもまったく獲物がなかったのに、ズブの素人と思っていた元大工さんのイエス様が指示する通りにやってみたら信じられないほど多くの魚が取れたのです。「老人と海」の場合には一人でしたから舟に魚をあげられなかったのですが、弟子たちは友達の舟も呼んで助けてもらって、二艘の舟を魚でいっぱいにしました。そのとき、彼らは信仰心を持ったのでしょう。「神様のみ心」は信仰心を持った時に分かるのです。そのイエス様が、あなたがたを人間をとる漁師にしてあげると言ってくださったのです。イエス様に呼びかけられたことによって、弟子たちは、自分たちが何のために生まれてきたのかがわかったのです。

人をとる漁師とは「人間の魂を神の国へと獲得する伝道者となること」であるとある学者は言っています。自分の為に生きていたものが、人間の魂を神の国へと救い、獲得する者へと変えられたのです。

これほど大きな方向転換があるでしょうか。自分から他者へ。自分から神へ。自分を喜ばせるのが第一だった人々が、隣人を愛し、神を愛す、また自分の人生を愛し、感謝する愛の生活に方向転換したのです。つまり、罪から救いへ、闇から光にです。聖書ではこのような方向転換が、悔い改めと呼ばれています。

こうした悔い改めと招きを可能にした、イエス様という人物に神の神秘が宿っていたことを、聖書は告げています。福音的讃美歌「大波のように」の一節に「漕ぎ出せ!漕ぎ出せ!世の海原に、先立つ主イエスに身を委ねて」とあります。2千年の前の弟子たち、現代の弟子であるわたしたちも同じです。この世で、神の愛を自分で覚え、他者に伝えて実践するために招かれているのです。一年に一人でいいから伝道しましょう。上手な、言葉は要りません。プリントを渡したり、聖書をあげたりするだけで良いのです。祈っておこなうことです。わたしも祈った人が37年後に洗礼を受けた経験もあります。その伝道によって、わたしたちの暮らす家も教会も、イエス様の弟子たちの暮らす司祭館になるのです。

 

モバイルバージョンを終了