聖書研究

人生のマイナスがプラスに変わる神の摂理

使徒言行録11章19節-30節    文責 中川俊介

19節には、以前に迫害を受けて処刑されたステファノのことがでています。このことがあって、当時エルサレムにいた信者は難を逃れるために国外に逃亡していきました。彼らが逃亡した場所である、フェニキア、キプロス、アンティオキアなどはエルサレムから700キロちかく離れた場所でした。かなり遠い場所ですが、歩いて行けない距離ではありません。それに、キプロスは地中海の島ですので、迫害を逃れるには好都合だったのかもしれません。これは良く知られたことですが、迫害によって世界中に散らされた信徒たちによってキリスト教は伝えられたのです。彼らは「いわば難民です。生活に困り、途方に暮れる、その人びとが、偉大なことをしたのです。」[1] 迫害という面だけを見ると、マイナスの面が強いものですが、こうした試練をも通して神は人々の信仰を強め、その働きを進めてくださるのです。ただ、19節の後半に書いてあることによると、この時点で、ユダヤ人信徒たちは異邦人にまで福音を伝えるという自覚と使命はまだ持っていなかったようです。

ところが、キプロス島出身の者たちや他のユダヤ系の信徒たちがアンティオキアに行き、ギリシア語を用いて異邦人に福音を伝えたのです。「ユダヤ教の律法は新しい信者に要求されなかった。」[2] これは使徒によってではなく、一般信徒による伝道でした。それは新しい試みでした。現代の教会でもこれは必要なことです。「昔変わらぬ伝道方式のみに頼るのではなく、今の人々の問題を捕え、その人びとの悩みに答えていく新しいアイディアが必要とされているのではないかと思われます。」[3] ですから、わたしたちにとっても他宗派の人々との交わりや、地域での活動は大切なことでしょう。ところで、このアンティオキアには色々な人々が集まり、キリスト教徒の国際センターのようになっていったと思います。「アンテオケは人口において、当時のローマ帝国内で第三位を占める大都会であり、(中略)、経済的に繁栄しただけでなく、シリア州を管轄するローマ総督の駐在地として、政治的・軍事的にも重きをなした。」[4] ローマの人口が約百万人、アンティオキアは約五十万人でした。20節にはっきり書かれているように、この福音も単に神に関するメッセージではなく、「主イエス」の十字架の贖いと復活に関するものでした。わたしたちもこの点を見過ごしてはいけないと思います。神を信じている宗教者は多いでしょうが、キリスト教はまさに「主イエス」の十字架の贖いと復活を信じているのです。抽象的な神信仰ではなく、実際に2千年前にわたしたちの罪のために苦しみを負ってくださり、復活によって新しい命を与えてくださった救い主イエス・キリストを謙虚な思いをもって感謝の内に信じることです。

21節には興味深いことが書かれています。伝道は進展したのですが、それは、「主が人々を助けた」ためだというのです。人間の行動の背景に、しっかりとした主への信頼感が現れています。それは、誰も人間の業を誇らないためだと思います。ここには、「主に立ち帰った」と書かれていますが、原語では主の方に向きを変えたという事であり、悔い改めと意味が近いことが起ったわけです。今までの、彼らの人生の歩み方が変化して、主を中心としたものになったのです。わたしたちの人生はどうでしょうか。主を中心としたものになっているでしょうか。

ただ、アンティオキアから千キロ近く離れているエルサレムでは、そこで一体何が起こっているかはわかりません。何やら活発に伝道活動がなされているようですが、それが正しいものかどうか、危ぶむ人々もいたことでしょう。そこで、エルサレムの使徒たちは代表としてキプロス出身のバルナバを派遣し、キプロスの人々の伝道を視察させました。「その人柄は寛容で温厚、聖霊と信仰に満ち、律法の厳しさよりもむしろ『慰め』を特質とする人物であった。」[5] バルナバの使命はアンティオキアの伝道活動の正当性を判断する事であったと思いますが、現地に到着すると、心配は吹き飛びました。アンティオキアの人々は、人間的な宗教観に立つのではなく、キリストの恵みの福音に立っていたのです。それを見て、バルナバも大きな喜びに包まれました。そして、23節にあるように、この信仰にしっかり立つように勧めました。人間は弱さを持っていますので、この信仰に立たなければ、人間的な知恵や信念は迫害や試練によって崩れてしまうからです。おそらく、迫害を経験したバルナバは信仰に堅く立つことの意義を痛いほどに知っていたでしょう。「神はその信仰のところで、大きなことをなさるのです。」[6] わたしたちはどうでしょうか。現代の日本には迫害こそありませんが、日々、わたしたちの信仰を揺るがすさまざまな障害に取り囲まれているのではないでしょうか。その点で、バルナバは優れた指導者だったと言えます。ですから、人物評をあまりしない筆者のルカも彼が「立派な人物」であったと書き記しています。そしてその立派さは、人間的な能力に関するものではなく「聖霊と信仰に満ちていた」ことなのです。どこの教会でも「聖霊と信仰に満ちて」いる人々は、伝道のかなめとなっています。物事を、利得や人間的配慮、計算等で判断するのではなく、今ここで、主がわたしたちに何を望んでおられるかという事に注意し、僕の姿勢でその御心に従順に従うのです。

その結果、伝道は進展し、24節にあるように多くの人が信仰を持つことができました。まさに、異教の地であったアンティオキアがエルサレムに並ぶキリスト教の中心地になっていったのです。それまでのフィリポやペトロの伝道は単発的なものでしたが、小さなことから始まった神の働きは大きな潮流となったのです。これこそ神の働きといえます。歴史の流れを鳥瞰しても、ヨーロッパに広まったキリスト教は韓国や中国などのアジア諸国、インド、アフリカ諸国にその活動の中心が移ってきています。神の働きが生きている証拠だと思います。あるいは、神の働きは特定の場所に固定されないと言えるでしょう。

バルナバは自分の働きに自己満足することはありませんでした。一人の人間の働きには限界があります。バルナバはなんと、以前の教会の迫害者であったサウロを伝道活動に参加させるために、100キロ以上離れたタルソスまで彼を捜しに行ったのです。「エルサレムにおいて彼らの間に結ばれた交わりが、今、実を結んだのである」[7](使徒言行録9:27参照)サウロの方もバルナバの熱意に負けてアンティオキアにやってくることになりました。26節にはアンティオキアの教会で二人が協力して働いたことが書かれています。迫害を受けて試練を経てきたバルナバと、その迫害の先鋒であったサウロとは以前は敵味方の関係でしたが、その二人があたかも旧知の仲であるかのように一緒に働く姿は恵みにみちたものだったことでしょう。バルナバはサウロに多くを教え、後の大伝道者パウロの信仰の基礎がここで形成されたのではないでしょうか。「パウロとなることは、誰にでもできることではありません。しかし、バルナバの仕事なら、誰にでもできるはずです。」[8] また、二人は根気強く人々に教えを伝えました。「パウロとバルナバが行った教える働きは、聖書入門やキリスト教生活の牧会指導を必要としている人びとの個人的指導にあった。」[9]一人で立つ信仰はありません。わたしたちも、伝えてくれたものによって現在があるのです。とくに、これは人間的道徳指導ではなく、生活の中心が救い主イエス・キリストに向くようにしたものだったでしょう。後のパウロはこう言っています、「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」(第一コリント4:15以下参照)わたしたちにとっての、バルナバやパウロは誰であるのかを話し合ってみましょう。

26節にあるように、バルナバとサウロの働きは一年で実を結び、そこでの信者は歴史

上初めて「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。「この名前は、信仰者ではない人々からの呼び名であった。」[10] もはやユダヤ教徒でもなく、以前の蔑称である「ナザレ派」というナザレ出身のイエスに従う者でもなく、救い主キリストを信じる「クリスチャン」と公に認められるようになったのです。短期間の目ざましい働きはまさに聖霊の働きといえるでしょう。普通、わたしたちには「長い年月のうちに、しだいに教会が形成され、信者が成長していくのだといった悠長さがあります。しかしそれでは、ほとんど一生かかっても、何もできないのではないかと思わされます。」[11] 教会教育と信仰生活の訓練は大切なことです。ここで、クリスチャンとはギリシア語では「クリスチアヌウス」となっていて、キリストに属する人々という意味です。バルナバとサウロの教えと祈りによって、人々は頭だけの信仰ではなく、彼らの生活が主に属するものとされたのです。本当の意味での帰依と言えるでしょう。それも霊の働きの実りであり、キリストの為には何も苦としない確固たる姿勢、死をもいとわない態度が築かれたのです。小さな事で、ストレスを感じたり怒ったりすることは論外です。そこで、エルサレムではなく、アンティオキアが「クリスチャン」発祥の地になりました。まさにイエス様の言葉のように、後のものが先になったのです。これこそ、神のもたらす新しい秩序であると言えます。

27節には、新しい出来事が記録されています。預言をする人々がエルサレムからアンティオキアにやってきたのです。初代教会には、預言を担当する働き人の存在があったことが知られています(第一コリント12:28以下参照)それらの預言者の一人に、アガボという人物がいて霊によって大飢饉を予告したとあります。そしてそれは、クラウディウス帝の時に実際に起こったのです。クラウディウス帝の在位は紀元41年から54年ですから、この間の時代に一連の出来事が実際に起こったと考えられます。紀元48年に歴史に残る大飢饉がローマ帝国内におこっていますので、使徒言行録が示唆しているのはこの頃の事だろうと思われます。イエス様の十字架と復活の出来事から既に十数年経ていました。

この預言があったので、アンティオキア教会の人々は29節にあるように「それぞれの力に応じて」支援をすることにしました。「アンティオキアの人々は、来るべき飢饉に備えて食料を調達するために募金した。」[12] この多様性と柔軟性は教会にとって必要なことです。「多く与えられた者は多くささげるべきです。」[13] それに、喜んでささげられることが大切です。ささげる姿勢は、信仰のバロメーターであるとよく言われます。それは、自己中心の生活から救い主中心の生活に転換しているからです。その募金の輸送の責任者はアンティオキアで活動していたバルナバとサウロでした(第一コリント16:1参照)。両者ともエルサレム周辺の地理には詳しかったのですから適任だったと思います。ここで、飢饉を介して、教会が他の教会を助けるという慈善の働き、つまりディアコニアが生まれました。また、イエス様の十字架の贖罪の地であったエルサレムを覚えることは彼等にとって重要だったと思われます。

[1] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、173頁

[2] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、202頁

[3] 尾山令仁、「使徒の働き上」、羊群社、1980年、417頁

[4] 矢内原忠雄、「聖書講義1」、岩波書店、1977年、710頁

[5] 前掲、矢内原忠雄、「聖書講義1」、711頁

[6] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、174頁

[7]   シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、152頁

[8]  前掲、蓮見和男「使徒行伝」、174頁

[9]   前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、152頁

[10] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、115頁

[11]  前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、426頁

[12] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、204頁

[13]  前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、434頁

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