今週の説教

誰にも病んだ部分がありますが、その癒しを聖書から学ぶ説教

「もとから癒す」              マルコ2:1-12

旧約聖書のミカ書をみますと、7章18節のところに「あなたのような神がほかにあろうか。咎を除き、罪を赦される神が。すべての罪を海の深みに投げ込まれる」、と書いてあります。どの文化、どの社会にも神といわれる存在があります。そして、禊(みそぎ)といって、わたしたちが努力して罪の禊、贖いをするというのはあります。しかし、神の方が罪人を助けてくれて、罪を手の届かない深い海の底に沈めてくださるというのはないのです。

「臭い匂いはもとから絶たなければダメ」、という言葉が昔のコマーシャルにありました。これは問題の根源、もとにせまることです。例えば過労死です。これは、労働者のストレス、自殺、ブラック企業等の現象に注意をひきやすい。つまり表面です。問題はもっと深いもとにあります。ですから作業改善の協議や計画に、労働組合や労働者自身が加わることが大切だとILO(国連の国際労働機関)は指摘しているそうです。同じように、罪の現象は、ガラテヤ書5章19節以下に書いてあり、「人間の欲望、敵意、そねみ、怒り」、などであるとされています。ただし、それは表面に浮いてきたアクのようなものであり、中身が綺麗にならなければ、アクを取り続けても無駄骨でしょう。原因をもとから絶たなくてはいけません。

さて、原因をもとから絶つ話ですが、イエス様がペトロの地元であるカファルナウムで多くの癒しを行ったことは周辺の地域にも知れ渡りました。そして大勢の人が来ました。この時には、イエス様は癒しの業をするのではなく聖書を教えて伝道しました。衣食住は勿論、大切ですが、生きていくもともとの意味は聖書に書いてあるからです。イエス様は、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)、と説教したのでしょう。

そのとき、中風の人を寝床に乗せて4人の人が運んできました。しかし、あまりにも人が多くて家に入れません。そこで彼らは屋根に上ってそこに穴をあけて病人を下したのです。わたしたちなら、なんてことをするのかと怒るところですが、イエス様は全く違いました。中風の人に、罪は赦されたといいました。中風とは脳卒中のあとでおこる半身不随のことです。勿論、この病人にとっての苦しみは、思うように歩けない、食べ物でさえ自由に食べられない、言葉が出ないなどのことでした。わたしたちも、こうした困難を目の前にして、悩んだり、人を恨んだり、絶望したりしているわけです。そこで、つい忘れてしまうのは、イエス様の伝道説教にある根本的な問題です。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

そこで、目の前に病人が天井から下ろされた時に、イエス様は「あなたの罪は赦される」

と言いました。ただ、残念ながら、この日本語訳では、十分にイエス様の言葉の本当の衝撃がつたわってきません。「赦される」というならばこれからそうなるという印象を受けやすい。しかし、この言葉は現在形であり、受動態で書かれています。つまり、「あなたは今、現在、既に本当に赦されていますよ」という愛に満ちた宣言なのです。もう一つあります。「罪は」と書かれていますが、そうではなくこの言葉は原語では複数形になっていて、「さまざまな罪が」赦されているということを示しています。ひとつの罪が原因でこの病気になっているのなら、単数形でしょう。複数形だということは、罪と病気とは直接は関係ないことです。もはや、中風は問題ではなく、治ったらいいが治らなくてもいいのです。表面的なものは問題ではないのです。もっと深いところの問題にイエス様は光を投じたのです。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)

大切なのは、中風の人の信仰に関してはなにも書いてないことです。彼にはなにもできなかったわけです。ここでは、病人を寝床に乗せて運んできた4人の友人たちの愛の信仰が病人を救ったというのです。力なく横たわっている病人ではなく、その人を愛し心を砕く家族や友人たちの信仰が神の義と認められて、イエス様の罪の赦しの宣言がうまれたのです。パウロも言っています。「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:14)まさに、ミカ書の預言の中の罪の赦しと同じです。

ところが、それを見て批判した人々もいました。彼らは「神を信じる人々」でした。知識もありました。病気の癒しだけならむしろ良かったのです。ですが、根本問題の罪の赦しが与えられていると宣言するということは、イエス様が神の神聖な領域に入っていることだと感じたのです。罪を赦せるのは神だけである、という彼らの意見は間違ったものではありません。こうした批判が蓄積して、イエス様を十字架につける原因となりました。病気は医者でも治せる、しかし、死の力である罪を赦し、新しく命を与えることは、神にしかできないと彼らは考えたのです。

そこで、聖書はこの問い掛けを、実はわたしたち自身にも投げかけています。イエス様が、癒し主だとか愛の人だとかは言えるでしょう。それは表面的なことに過ぎません。聖書はむしろ深いことを示しています。皆さんはどう感じるでしょうか。つまり、イエス様を批判した律法学者たちの言葉も正しかったのです。神しか罪の赦しは与えられない。これは確かです。そして、イエス様ご自身が「人の子」であると言っており、神そのものだということです。父と子と、聖霊という三位一体の真理です。この箇所が十字架に向かう受難節の始まる前の時期に選ばれているのは、イエス様が神の子であるという三位一体の真理を示しているからです。罪を赦す神の姿をイエス様の癒しの活動の中に暗示しているのです。

現代でも、罪に起因する多くの犯罪や、殺人があります。それは、上に浮かんでくるアクのようなものです。犯罪に手を染める人たちの根源、つまり幼少期は実に暗く、いじめとか親からの虐待とかがほとんどの場合に見られます。先ほど引用した「人間の欲望、敵意、そねみ、怒り」、などの問題に苦しむ人間が、自分の子供を虐待し、やがては犯罪にはしらせるのです。彼ら自身も傷ついた人たちだと言えるでしょう。地上における神の姿であるイエス様はそのことを深く知っていました。犯罪者だけでなく、わたしたちも深く傷ついてはいないでしょうか。わたしたちにも何らかの障害や悪い習慣はないでしょうか。だから、イエス様は、聖書にあるように、深い愛を持って罪の赦しを宣言し、開放の福音を告げてくださったのです。

教会の中心は、傷だらけの人を愛し、その贖いのために十字架にかかってくださった神、イエス・キリストです。教会は、自分の悩みの虜になっていたものが、この深い神の愛の犠牲を知る場所です。印西インターネット教会も、建物こそありませんが、中心はイエス・キリストです。

もうすぐ2月14日であり、バレンタインデーですが、これは元来269年に殉教した聖ヴァレンチヌス司教を記念した殉教の日でした。彼はローマ帝国の兵士に対する結婚禁止令に反対し、秘密に兵士を結婚させていたが、捕らえられ、処刑されたといわれています。若い人たちの愛のために犠牲となった彼の処刑日が「恋人たちの愛の誓いの日」となったわけです。

罪を取り除くイエス様の十字架の愛の犠牲は聖ヴァレンチヌス司教だけでなく多くの聖徒をうみました。今もそうです。表面的な問題ではなく、キリストの神性という真理、イエス・キリストの十字架の贖いという深い真理を信じることによって癒された者は、罪の束縛から解かれ、自由と喜びに生きることができます。それは、ほかでもないわたしたちのことです。また、自分に力がなくてもいいのです。神の義によってわたしたちを運んでくれる信仰の兄弟姉妹が教会には4人以上いるのです。あなたの罪は赦された、安心して行きなさい、そう呼びかけられているのです。

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