今週の説教

人類平和共存の根本原理を聖書から学ぶ説教

2022/02/13

「みんな仲良く」          マタイ5:21-37

福音書の21節の「殺すな」とは、モーセの十戒の5番目の言葉です。殺人の禁止です。それはモーセの十戒であり、当時の人々が大切にしていた律法でした。しかし、イエス様はこれを、なんと「過去の人々」に語られた律法だとしています。これを聞いた人は憤慨したと思います。「殺すな」というモーセの十戒の言葉は、わたしたちにとっては当然な事です。そして、残忍な殺人をした者にたいして、非難の言葉を浴びせます。そしてそのようなひどい罪を犯した者は、厳しいさばきを受けなくてならない、と思うものです。イエス様はそれを昔の規則だと言いながら、実は、もっと深いことを教えています。そもそも、殺人に到るにはそこに憎しみや怒りがあり、原因があるはずです。わたしたちは、結果を重視しやすいものです。確かに、結果というものが殺人ならば、決定的に裁かれるでしょう。しかし、どうでしょうか、もし、殺人に至らなかったら、その刑の度合いは、被害者の怪我や社会的影響から判断されるのです。やはり結果を重視します。ただ原因はどうでしょうか。忠臣蔵は江戸時代に江戸城松の廊下で起きた傷害事件が発端でした。刀を抜いて吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭は即日切腹の刑、吉良上野介はおとがめなしでした。結果から見たら、傷害事件を起こした浅野内匠頭の誤りであることは確かです。しかし、一般大衆と、浅野家の家臣はこの判決に不服でした。つまり、何の原因もなく、御法度である刀を江戸城で抜くということはありえないというのです。その原因は、吉良上野介のいやがらせや、いじめだったとみられています。当時の犬将軍と言われた5代将軍徳川綱吉は、原因を突き止めることなく、結果として現れた殺人未遂を裁いて、切腹を言い渡したのです。考えてみると、いじめの背景にも憎しみがあり、いじめられた本人にも憎しみがあったわけです。ですから、忠臣蔵は美談ではなく、憎しみという内部の原因が双方の死をもたらしたということです。福沢諭吉は、赤穂浪士を暴力集団と呼んでいます。忠臣蔵が美化された時代に、よくもこのように言い切ったものです。福沢諭吉はものごとを客観的にみる眼をもっていたと思います。

さて、イエス様は、殺人の原因が怒りにあることを教えました。怒ること自体が神を越えた自己の考えの絶対化です。ルターはこの第五戒の個所についてこう説明しました。「この個所の禁止には神と公権は含まれていない。また神の代理をつとめる両親もこの個所には含まれていない。」つまり、怒ること裁くことは神の特権であり、親や裁判所、警察などの公権にも及んでいるという考えです。それ以外の者が怒ることは神の領域を侵害し、自己を絶対化する越権行為だというのです。また、ルターは迫害するものたちに関して、こう言いました、「私たちは私たちの患難のためでなく、迫害者の悲惨のために心を砕きます。なぜなら、私たちは自分で十分に信仰もっているからですし、彼らは私たちに何の損害を与えることができず、かえって彼らが荒れ狂えば荒れ狂うほど、彼らは自分たちをだめにし、私たちを促すことになることを私たちは確信しているからです。」

しかし、わたしたちが、イヤなことをされた、変なことを言われた、不公平に扱われた、というようなときに怒るのは当然でしょう。自分には怒る理由がちゃんとあると思うのです。その時に、神の領域を犯したなどとは思ってもみません。だから、イエス様は、怒ることは殺人と同じだと教えたのです。イエス様の教えによれば、「ばか」という言葉は、最高裁で裁かれるのと同じです。「愚か者」と言うものは、殺されて地獄に投げ入れられるのです。つまり、神が越権行為をしたものを必ず裁くというのです。人間が神の主権を越えては危険だということです。パウロも言っています。「わたしは自分で自分を裁くことすらしません。わたしを裁くのは主なのです。」(第一コリント4:3以下)

これはわたしたちにとって厳しく難しいことです。不可能に近いことです。普通の人間は悪魔にそそのかされて憎しみや、怒りの罠にかかりやすいものです。しかし、この点で自分が本当に不完全なことを痛感しているなら、どうして他者の欠陥や失敗にたいして怒ることができるでしょうか。ですから、イエス様は、単に怒るな、腹を立てるなと言っているだけではありません。他者を裁いてしまうという、神の領域を犯す罪を持っている自分自身を見つめなおすことを教えています。そして、同じ欠点を持つ者同志で、和解し、仲良くしなさいというのです。そういえば、イエス様の架刑のときの記事を読んでも、イエス様が怒ったとはまったく書いてありません。イエス様の行動の根本原理は、「わたしは裁かない」だったと思います。「人を裁くな、あなたがたも裁けれないようにするためです。」(マタイ福音書7章1節)裁かない事は怒らないことであり、怒らないことは殺さないことなのです。

27節以下の部分をみましょう。これはモーセの十戒の6番目です。当時のイスラエルでは結婚した女性が他の男性と関係を持てば死罪でした。結婚した男性の場合には、相手の女性が結婚していなければ関係を持っても罪に問われませんでした。そうした男性優位の社会の中で、イエス様は怒りと殺人の関係と同じように、姦淫と言う結果に到るまでの原因を問題化したのです。ルターは言いました。配偶者は神からの賜物であるから、心から愛すべきであり、尊重すべきなのです。相手の態度や行動という結果を観察して尊重するのでなない。神の与えて下さった伴侶であるという原因だからです。ですから、情欲をもって女性を見るだけで、これは神の計画に反する姦淫だと教えたのです。

次の離縁についてですが、当時は男性が勝手に離婚を決定することができました。ここでも、イエス様は、結婚は神が定めたものであるから、神の主権を越えて人間が感情で離婚してはいけないというのです。パウロもエフェソ5:25以下で教えています。「キリストが教会を愛したように」キリストの愛で愛しなさいということです。しかしある牧師は言いました、「私たちは、隣人を愛することができない」。わたしたちは、どこか遠くにいるあんまり関係のない人を愛していると言うことができるし、赦すこともできるし、たまに会った人にニコニコとあいさつをすることができるものです。しかし、毎日顔を合わす人、そういうような人を愛することができない。イエス様が指摘しているのはその点だと思います。

この3つの教えに共通しているのは、愛なる神を忘れて怒り、神の愛を無視し、神の定めを平気で破ることです。その人は、赦されることはなく、やがて神から捨てられてしまう人である。それはほかでもない、わたしたち自身なのだと、イエス様は言いたいのです。ある神学者がこう書いています、「イエスの言葉はわれわれへの死刑宣告であった。しかしこのように厳しく言えたのは、イエスが罪の赦しの救い主だからである。福音は律法のおわりである。」

だから、その赦されないわたしたちの罪を、イエス様は自分の裁きとして受けられ、十字架にかかってくださったのです。それが主の愛です。そうして、わたしたちが罪人でありながら愛されていることを示されたのです。ですから、みんな仲良くしなければいけないわけです。神が御子イエス・キリストの死をもって定めた、愛の戒めを越えてはいけない。越えるならばその人自身が不幸になってしまう。それが、日課の後半にある「天にかけて誓ってはならない」という言葉ではないでしょうか。神の定めを越えないこと。神の主権を尊重することを、イエス様は示された。イエス様の生き方を信じ、従うる者が多くなれば、この世から争いや憎しみも消えるでしょう。モーセの時代だけでなく、現在も刑法があるのは、社会で争いが絶えないからでしょう。ただ、イエス様はその争いの終わりは、結果に対して厳しい罰を与えることではなく、すべての原因である神の愛の領域を越えないように自重し和解することだと教えています。みんなで平和に仲良くできるかどうかは、神の赦しの愛という原点に立たせていただけるかどうかなのです。

 

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