中国の歴史ドラマの中で認命(レンミン)という言葉に出会いました。中国語で命(ミン)とは、運命の事も示しています。だから、算命(スワンミン)と言えば、運命の計算をすることであり、運勢を占うという意味になるわけです。そこで、認命といえば、天命を認識することになります。つまり、己の定めを知ることです。人間には罪があるので、自分の思うようにならないと、イライラしたりジタバタしやすいものです。しかし、認命はその正反対です。良い事も、良くないことも、自分の采配を離れた天の定めがあることを知るのです。中国のように長い文化的歴史を持った国では、とくに宗教的でなくても、人間中心の思惑を離れた世界観を持っているのだと思いました。この考えは、聖書の中でもよく見られます。ダビデ王が、息子アブサロムの謀反に遭遇して、エルサレムの宮殿から逃亡した時に、昔のサウル王の親族の者が通りに出てきてダビデを呪いました。その時のダビデの態度が、まさに認命だったと思います。「ツェルヤの子アビシャイが王に言った。『なぜあの死んだ犬に主君、王を呪わせておかれるのですか。行かせてください。首を切り落としてやります。』王は言った。『ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ。主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから。どうしてそんなことをするのかと、誰が言えよう。』」(サムエル記下16章9節以下)わたしたちも天命を認識したら、どれほど心は安らかになる事でしょうか。もしかしたら、人間の過ちによって引き起こされたコロナ禍の試練をも通して、神は救いの契機を教えているのかも知れません。