今週の説教

人生が耐えがたいと思った時に読む説教

「これも天与の試練かな」       ルカ4:1-13

代返と言う言葉があります。これは大きな教室などで出欠を取る場合に、欠席した友人のために代理で返事をすることです。勿論よくないことです。しかし、代返してもらうには信頼のおける友人でなければなりません。また、借金の肩代わりと言う言葉もあります。他人が作った借金なのに、その人を助けるために代わりに返済するのです。

受難節には、礼拝堂の式布の色も、受難を現わす紫に変わります。実はこの尊い紫の色が借金の肩代わりと同じ意味なのです。何故なら、聖書によれば、人間の罪とは神様に対する莫大な借金のようなものだからです。自分で努力して返済できるものではありません。それを、わたしたちを愛して下さるイエス様が肩代わりして、罪の処罰の身代わりとなって十字架の刑罰を受けて下さったのです。「正しい方がわたしたちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。」(第一ペトロ3:18)この、わたしたちのためにとは、あなたの代理として、というのと同じ意味です。

それを頭に入れて今日のイエス様の誘惑と試練の話をみてみましょう。つまりここでも、イエス様は、わたしたちに代わって、わたしたちが最も苦しむ、誘惑と試練の身代わりになってくださったのだと思います。

使徒書の日課であるローマ10:11には「主を信じる者はだれも失望することがない」とありました。これは、イザヤ書28:16からの引用ですね。興味深いことにイザヤ書には「試みを経た石」「貴い隅の石」とも前半に書いてあります。イエス様ご自身も、隅の頭石について教えました。教会の土台となる隅の石は、試練を経た貴重な石なのです。その意味で、試練こそ信仰の土台であると言えるでしょう。キリスト者はまさに、わたしたちの救いのために、この試練にあった石であるイエス・キリストを土台として、そこに立ちなさいと命じられています。

今日の福音書に書いてあるイエス様の誘惑と試練はまさにこの例です。イエス様がヨルダン川で洗礼を受けてから、エリコの方に行ったと思われます。なぜなら、誘惑の山として伝承されている絶壁はエリコの郊外にあるからです。中世には、そこにたくさんの修道僧ががけに洞穴をつくって住んでいたそうです。いまでは観光地になっていますが、まだ神父さんも住んでいます。そこでいろいろ話していたら、あなたは偉大な牧師になると言われました。それに、そこにはイエス様が座ったという石も残っています。イエス様はここで40日間、何も食べずにすごしたのです。それは、わたしたちの苦しみを象徴していると思います。イエス様の苦しみは、わたしたちが人生で経験する痛みと苦しみを代わりに担ってくださったのです。つまり、最終的に十字架に向かう苦しみの初めです。

断食のあとですからイエス様の空腹は極限に達していました。人間の断食の限界は、個人差もありますが40日から50日だろうと言われています。イエス様も人の子でしたから、命が終わろうとしていたのも事実です。これもわたしたちに代わって死を体験してくださったのです。その極限の時に、悪魔は、「もしあなたが神の子なら石をパンに変えて生きてみろ。できないなら、神の子ではない。」と宣告したのです。考えてみれば悪魔の言う通りです。悪魔の言葉には道理があります。神の子なら不可能はない。しかし、イエス様はあくまでわたしたちの苦しみの代理となられたかたです。自分で選んだのではなく、「引き回された」と書かれています。それは、わたしたちも運命の波に引き回されるからです。明日は3.11の日で地震から8年たちましたが運命の試練に引き回されている多くの人々がいます。政府は、それを莫大なお金を投入して解決しようとしています。イエス様の解決は違います。苦しむ人の身代わりとなって、代理として苦しむことでした。イエス様は神の子として問題解決するという誘惑を否定して、人はパンだけでなく神の言葉で生き、神にすべてを委ねて生きもし、死にもするのだと断言しました。

悪魔の誘惑とは、実は、石をパンに変えたり、高いところから飛び降りたり、人生を思いのままに操ることです。確かに人間の力は神に似ています。石の事ですが、石からパンを作るのはまだ聞いたことがありませんが、石から水を出すことは出来ます。巨大な電子レンジの中に石を入れるのです。加熱された石から水蒸気が出ますから、それを冷やせば水になるのです。パンは基本的に炭素ですから、いまに炭素を加工してパンができるかもしれません。ダイヤモンドは全部炭素ですから、ダイヤモンドを加工してパンにしたり、パンを加工してダイヤモンドに出来るかもしれません。その可能性を悪魔はイエス様に投げかけたのです。

最後に、「もしあなたが云々のことをしたなら、もしあなたが神の子なら」という悪魔のささやきの問題があります。神を信じないなら、人生は「IF」でいっぱいになります。悪魔は言いました。「もしあなたが神の子なら」「もしわたしを拝むなら」、わたしたちも「もしあの時あの事をしていたなら」「もしわたしに金や力があったなら」、それが誘惑です。イエス様は一貫して神を信じていました。神の無条件の愛です。無条件だから、そこに、もしと言う条件節は絶対入ってこないのです。イエス様はわたしたちの身代わりとなって十字架にかかっただけでなく、わたしたちに代わって悪魔の誘惑を受けて、もし、と言う条件節を終わらせてくださったのです。そして、御心のままに生きる道を示されたのです。「これも天与の試練かな」誘惑や試練さえ、神の無条件の愛の下に受けられたのです。飢えている人も幸いです。泣いている人も、批難され、追い出され、陰口をいわれている人も幸いです。「天には大きな報いがある。」「その人たちは神を見る」「その人たちは神の子である」

ですから、イエス様は、「もし」信じていたら奇跡が起こって守られる、飛び降りても平気だ、問題がなく生きられるという悪魔の誘惑に対して、神を試さないこと、人生をあるがままに、良いことも悪いことも感謝して受け入れるという信仰者の姿を示されたのです。

わたしたちは聖書の言葉がわたしたちを支える土台となるように聖書を読みましょう。今日のイエス様の体験はわたしたちの代理の苦しみです。イエス様は神の子ですが、神の力を用いず、人の子として、わたしたちの親友として苦しまれました。そこに愛と信頼があるから身代わりになってくださったのです。こんな話があります。外国である青年が路傍伝道していました。すると群衆の一人が叫びました。「お前はキリストがわたしたちの罪の身代わりになって死んだというが、他人の身代わりで恵みを受けようとは思わないね。」青年は言いました。「そういってもあなたの履いている靴はどうですか。あなたを足のケガから守るために牛が身代わりになっています。帽子はウサギの毛皮、カバンはワニの皮、そして食事で食べる肉類や魚は死んであなたに健康の恵みを与えてはいませんか。」男は黙って立ち去りました。ですから、イエス様の誘惑と試練に、わしたちは恩恵を受けています。それは、わたしたちは、3.11のような人生のどんな激動、災害事故、病気、何があっても悪魔のささやきに騙されない、福音の土台を感謝して受けとることができます。ローマ10:11の「主を信じる者はだれも失望することがない」という人それは、試練にあっても「これも天与の試練かな」と言える人です。そして教会では、一人ひとりが「試みを経た石」「貴い隅の石」となるのです。

 

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