目に見えるものに惑わされない生き方を学ぶ説教
「井戸は深い」 ヨハネ4:5-26
イエス様が通ったシカルという町は、昔はシケルと呼ばれました。アブラハム、イサク、ヤコブというユダヤ人の先祖に深い関係のある場所です。ここにある井戸は30メートル以上ある深い井戸でヤコブの井戸と呼ばれていました。古い写本ではイエス様は疲れて地面に座ったとあるそうです。当時は、旅人が水を求めたら拒否してはいけないしきたりがあったそうです。しかし、異民族の間ではそうではありませんでした。地元の女の人はイエス様が、サマリア人でなくユダヤ人であることがわかりました。おそらく服装とか、話し方の違いによるものでしょう。10節にある生きた水というのは、「神の救いの賜物」をあらわす言葉でした。ここから、救いについての話題に変わっています。イエス様の伝道はこの世の出来事を話しながら、神の御国の真理に展開するのが一つの形でした。ただ、11節に見られるように、女の人はイエス様の命の水という考えや霊的な満たし、こういうことを理解できません。やはり、この地上にあったヤコブの井戸、30メートルもの深さの井戸の事しか考えていません。ですから、イエス様に、水を汲む道具がないのにどうやってこの命の水を汲むのですかと尋ねたのです。第一コリント3:1以下をみますと、霊の人と肉の人とが比べられています。肉(ギリシア語でサルクス)と言うのは人間的な発想のことです。ですから、この女性も12節でイエス様に「あなたはヤコブよりも偉いのですか」と聴いています。彼女の心の中はまだ人間的なものでした。
そこで、イエス様はこの「命の水」の性質を語ります。ヨハネ6:22以下の命のパンと同じです。そこも読むとわかりますが中心テーマは、イエス様のことを神様が遣わした救い主として信じることです。命のパンも命の水も、救い主への信仰のことです。でも女の人はそのことが分からず、汲みに来なくてもよい水だと思い込ました。ここで、イエス様は話題を変えました。ちょっとこの人には理解できないな、と思ったのでしょう。肉的な、人間的な発想の女の人には、どうしても理解できないからです。例えば、ある大学教授が教会に行って説教を聞いたが、全く理解できなかったのです。頭は良くても、人間的な考えなので霊的なことがわからなかったのです。
イエス様が話し始めた新しい話題は水のことではなく、女の人のプライベートな生活に関してでした。イエス様は、彼女の生活を見抜きました。神さまはわたしたちのプライベート・ライフをご存知です。この女性は何故5回も結婚し現在は夫ではないものと暮らしていました。その理由はわかりません。ただ、初対面の人に自分の生活を言いあてられた彼女は驚きました。イエス様は、心の奥に深い傷を負った彼女の内面を知っていました。彼女は、真の愛に渇いていたのでしょう。作家の三浦綾子さんは、自叙伝の中で、このサマリアの女性のようであった自分の姿を描いています。終戦後生きる意味を失い、病にもなり、自暴自棄の生活をしていました。そのようなとき、キリスト者の前川正さんと出会います。前川さんは、綾子さんに立ち直ってもらいたいと思うのですが、その思いは通じません。彼はそんな自分が不甲斐なくて、綾子さんの前で、石で自分の足を打ちつけ出したのです。やめさせようとする綾子さんを振り切って、血が出ても打ち続ける前川さんの姿に、綾子さんはキリストの真実を見ました。前川さんはその後亡くなってしまいますが、綾子さんはキリスト者となり、キリストの愛を小説を通して伝え続けました。このサマリアの女も同じでした。イエス様に出会ってその驚きは尊敬に変わりました。この人は神の人に違いないと思いました。だから19節で、イエス様のことを、あなたは預言者だといったのです。
ただ、そこで彼女は、正しい礼拝の場所という話題に転換してしまいました。このサマリアの女は、神様の赦しを願い、神様と和解するためには、どの山に行って犠牲を献げ礼拝すればいいのか、イエス様に尋ねたのです。イエス様を預言者と思ったのですが、まだ、神が使わした救い主だとは信じていなかったわけです。イエス様はエルサレムの神殿かサマリアのゲリジム山の神殿かという神殿の正当性論争には巻き込まれませんでした。何が正しいとか正しくないとかという、この世の肉的な考えは、わたしたちを迷わします。教会でも、この世のもの、予算、計画、場所などが第一になったら、サマリアの女と同じです。彼女も信仰心は持っていた。しかし、霊的なものにまで成長していなかったのです。先祖の言い伝えを信じていただけでした。これは、全てのクリスチャンが陥りやすい問題点です。パウロも第二コリント5:7で、そうなってはいけない、自分は「目にみえるものでなく、信仰によって歩んでいる」と述べています。目に見えるものに迷わされてはいけないのです。
21節でイエス様は、わたしを信じなさいと語りました。この世の統計やデータではなく、救い主を信じなさい、ということです。そして本当に新しい礼拝を教えるのです。それまでの礼拝は、礼拝をする場所や何を献げるか献げ物の種類まで事細かに決められていたのです。この世中心、見えるもの中心です。そしてそれ以外の礼拝のやり方は決して神様に受け入れてもらえないと考えられていたのです。それとは違って、イエス様が教えた礼拝は、十字架でした。それは神聖な場所ではありません。罪人の処刑の場所です。喜びの場所ではなく、憎しみと悲しみの場所です。ですから、イエス様によれば、罪人の処刑の場所で真実の礼拝が実現するということです。
十字架の真相とは、それが究極の「礼拝」だったことである。
罪なき者が罪ある者の身代わりとなって死ぬことが真実の礼拝です。神の犠牲の場が礼拝の神聖な場所です。歌を歌ったり、お話を聞いたり、儀式を行うのが礼拝ではありません。それまでの、ユダヤ教の神殿での動物の犠牲による礼拝などは、真実の礼拝のは影にすぎなかったのです。そしてイエス様は、女に自分が救い主であると教えました。
犠牲と礼拝は大切な概念であり、分割することはできません。ローマ書12:1を見ますと、自分を神への犠牲としてささげなさい、これが「あなたのなすべき礼拝です」と書いてあります。パウロはイエス様の教えた礼拝の意味が理解できていました。神の井戸はどんな困難や、試練や日照りや、渇きがあっても、神の命の水を供給する井戸です。礼拝は瞑想の場ではありません。歌う場でもありません。それも悪くはないでしょうが、聖書は礼拝を、犠牲の場としてとらえました。
ただ間違ってはいけないのは「神にわたしたちが捧げる犠牲、人間が神をなだめようとする償い」として、人間の行為としてしまってはいけないのです。礼拝の原点は、神が与える犠牲、キリストの十字架です。そして、この犠牲によって信じる者の罪を赦し、豊かな命を与えてくださる約束が与えられています。これは決して変わることのない「真理」なのです。世界中至るところで霊と真実において父を礼拝することが実現するとイエス様は預言し、それは実現しています。その十字架の礼拝の場が教会であります。わたしたちの心の奥の渇きに潤いを与える水が与えられる場が教会です。教会の礼拝に神の命の水の井戸があります。それは、まず受けることです。神の犠牲をいただく。そして自分を捧げる。自分の為にとっておかずに、与え尽くす人生を神は望んでいます。いつも汲みださない井戸はにごり、やがて水は腐ります。しかし、人生の井戸は与えれば与えるほど豊かになるのです。
信仰の問題に限らず、ビジネスでも同じです。人の人生を豊かにする商品を販売する会社は豊かにされるのです。人の心を豊かにする芸術家は自分も豊かにされるのです。もし、わたしたちの人生がまだ豊かでなかったとしたら、祈りにおいて命の水が湧く深い井戸「神の救いの賜物」を求めましょう。十字架のイエス・キリストを救い主として信じましょう。それが福音の発見、命の水の発見です。神はわたしたちを愛し、潤いのある人生を与えようとしておられます。ですから、イエス様の犠牲をとおして、神の尽きぬ泉のような愛を知り、わたしたちも愛する者、水を与える者として生まれ変わります。これは人間の業ではなく神の業です。神は汲めども尽きせぬ救いの井戸を与えて下さっています。神の救いを信じましょう。