北海道のローカル番組「水曜どうでしょう」から始まって、紅白歌合戦の司会や「鎌倉殿の13人」に出演して全国的に知名度があがっている大泉洋と、アカデミー賞受賞作品「ドライブマイカー」に出演している三浦透子との共通点を発見しました。年齢も経歴も違う二人ですが、二人に共通するのは「本音」という事でした。大泉洋の方は、前にも書きましたが、トーク能力が極めて高いことが知られています。そして、相手との対談の中で、ユーモアを交えながら、相手の「心の本音」を引き出すのがうまいのです。その本音こそ、視聴者が共感できる点であり、ある意味で、人工的や作為的なものではない、エンターテイメントを供給できているのです。一方で、三浦透子のインタヴューを見ていて気付いたことがいくつかありました。「なっちゃん」のCMなどで、子役の頃からメディアに慣れている彼女ですが、若いころは、友達の前で時々別人を演じていて奇妙は人だと思われていたそうです。さらに、自分は出来る事なら鳥になって見たいと言っていました。何か、変身願望の強い人だと思いました。それだけでなく、小さいころから芸能界と接点があって、その経験から、人には本音と建前があって、その本音を見抜いていきたいと常に思っていたようです。まだ映画は見ていませんが、三浦透子の独特な目力(めじから)というものは彼女の演技にも生かされていると思います。そして、それは単なる素振りではなく、彼女の芯の深い所から来ている願望の表出だと思いました。例えば、彼女は大学で数学を専攻したそうですが、彼女の言葉を借りれば、「数学は言語であり哲学である」ので、演技の参考にもなるそうです。大泉洋も三浦透子も、誰もが外側の雑多な装飾の影響で見失いがちな、存在の根源(本音もその一部)を大切にしているからこそ、多くの人の賞賛を得ているのではないでしょうか。そして、このことが彼らの共通点です。そして、その共通点は、聖書にもみられるものです。出エジプトの際に、モーセが神に遭遇し、神の名前を言聞いた際にかえってきた答えが、「わたしは在って在る者だ」(出エジプト記3章14節参照)でした。それを意訳すれば、「わたしは存在の存在である」となるでしょう。これこそ、「本音」の世界だと思います。辞書で「本音」の語源をたどると、それは「真の音色」であり、「真実の言葉」とも言えるでしょう。そして、ここで大切なのは、「真実」です。虚飾や虚構に満ちていたユダヤ教の社会で、イエス・キリストは「本音」つまり、真実の言葉を大切にしました。イエス・キリストの前には、預言者たちが、一切忖度のない真実の言葉を大切にしました。だから、新約聖書にはこう書いてあるわけです。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ福音書8章32節)これを書き変えるとこうなるでしょう。「あなたたちは本音を知り、本音はあなたたちをこの世の束縛から解放する。」真実の宗教は、迷信や占いのようなものではなく、数学や哲学のように、真理に根差したものなのです。しかし、真実の宗教と言えども、組織化・団体化された宗教には多くの建前や虚飾があり、その根底にある真理を覆い隠してしまいます。ですから、現代のわたしたちにも真理を見抜く目力が必要なのではないでしょうか。