使徒言行録15章22節–40節 文責 中川俊介
最初の教会会議でもあったエルサレムの使徒会議の結果はどうだったでしょうか。前回見たように、異邦人の改宗者には、他のユダヤ人クリスチャンに反感を持たせないように最低限度の規則を守るように定めました。これは律法の制限であり、福音の優先です。そして、22節にあるように、使徒たちは異邦人伝道のための担当者を選出してパウロやバルナバとともにアンティオキアに派遣することにしました。「アンティオキアはシリア州、キリキア州の首都であり、異邦人伝道の中心地であった。」[1] これは、パウロやバルナバだけの指導に不安を持ったのか、あるいは、予想される反論に対して彼らをサポートする必要を感じたのかのどちらかでしょう。選ばれた人物は、ユダとシラスでしたが、指導的な立場の者だったと書かれています。そこには、エルサレムの使徒たちがいかに異邦人伝道を重視したかがあらわれています。自分たちの集まりでも、こうした指導者を必要としていたのに、遠くのアンティオキアの教会のために派遣することをいとわなかったのです。
23節以下には、その際の書状の内容が書かれています。これを記者であるルカが記録しているのは、公式な書状としての認証を与える意味もあったのでしょう。「手紙は、ただアンテオケの教会にあてられただけでなく、シリア、キリキアの全キリスト教界にあてられた。」[2] この手紙は挨拶から始まります。それは異邦人の兄弟である教会員に対する者です。異邦人を兄弟とみなす姿勢には権威主義は見られません。「みなキリストにあって、一つであります。」[3] そして、これまでの教理的な混乱を起こした者たちは、使徒の指示によらないものであったことが明記されています。確かに、ペトロもヤファやカイサリアでの不思議な体験を通して、神が異邦人伝道を承認していることを既に実感していたのです。ですから、ペトロ自身が指示してアンティオキアの教会の動きを律法的に軌道修正したとは考えにくいことです。25節には、何故、ユダとシラスのような指導的立場の者を選んだのかが書かれています。そして、パウロとバルナバに関しても、「わたしたちの愛する」という最大の賛辞をあらわしています。過去には、パウロがステファノの処刑に賛成するような迫害者の側にいた人間であったことを考えると、この短い表現にも主の愛と赦しが現実的に示されていると思います。わたしたちの生活の場面で、主の愛と赦しをどのように表わしていったらよいのかを考えてみましょう。
エルサレム会議の決定は満場一致でした。普通、ユダヤ人は全員賛成の議決は無効とするようなことを聞いたことがあります。その当時にそのような規定があったかどうかは分かりませんが、おそらく反対者の心も強い聖霊の働きの内に導かれ、満場一致となったのでしょう。「あれほど議論がわかれた問題が、どうして最後には一致へと到達できたのかと言えば、みなが主のみこころを求めたからでした。」[4] だれも自分の意見を絶対化しなかったのです。聖霊の語りかけに耳を傾けたのです。そして手紙は、パウロやバルナバの公式な立場にも言及しています。二人は、イエス・キリストの僕だというのです。単なる賛同者ではなく、「身をささげている者」であり、いわば殉教者であるのです。「バルナバとパウロは、イエスのためにそのいのちを捧げ、多くの死の危険の中で奉仕しつつ、全き服従をしたことを証明してきた。」[5] パウロやバルナバが勝手に伝道しているのではなく、エルサレム会議の公式な認定を受けたのです。これは日本という異教の地での伝道にも大切な点です。牧師は派遣されているのであって、自分で権威を捏造したのではないのです。牧師の任命は個人としての偉さや、能力ではなく、按手した教会会議そのものの権威なのです。それを認めないならば混乱が起こることは必至でしょう。以前のアンティオキア教会のように意見主張の強い人が教理を無視して信仰に混乱を引き起こすからです。教会が信仰の一致を守るために何が必要なのかを話し合ってみましょう。
ここで、エルサレム会議がユダとシラスをパウロたちに同伴させたのは、公式書簡だけでなく、直接に会議の決定を伝えるためでした。とても慎重な判断だと言えます。文面だけであると、その解釈に関しても議論は起るものです。教会を分裂させるような議論のなかにこそ、サタンの破壊的な力が働いています。初代教会はこの危険を回避するために多くの祈りと努力を払いました。
28節の言葉には、神の働きが直接にあらわされています。教会がイエス・キリストの体であることは知られています(エフェソ1:23)。そして、聖霊の具体的な場がエルサレム教会会議だったのです。そして、この聖霊の指示とは、異邦人信者に律法の重荷を負わせない事でした。ただ、信仰の自由の中で、既にキリスト者となっているユダヤ人信徒の信仰を動揺させることは好ましくありません。ですから、十戒ではなく、身近な行動に関する戒めを置いたのです。「ここで、なぜイエスの戒めであった、神を愛し隣人を愛する、ということが基本条項として採択されなかったのかは疑問である。」[6] 彼らが決めたのは、ユダヤ人信徒が嫌う偶像への供え物を避ける事、肉の処理に関する事、道徳的な逸脱の禁止などです。この3点に絞ったのです。これも、聖霊の働きと言えるでしょう。わたしたちがどう考えても、ユダヤ教徒からキリスト教への移行がこのようにシンプルに行われるという事は奇跡に近いことです。同時に、エルサレムの使徒たちがイエス様の教えに忠実に従ったことだとも言えます。真理は複雑なものではなく、実にシンプルなものだと思わせる箇所です。皆さんはどう考えますか。最後の挨拶が「健康を祈ります」であって、明るくユーモラスな感じも受けます。
30節以下は、会議の後の出来事に関するものです。パウロとバルナバそしてユダとシラスはエルサレム会議の公式な使者としてアンティオキアに行き、信徒全体を招集し、会議の公式書簡を公表しました。そこには大きな喜びが溢れました。議決に聖霊の励ましが感じられたからです。それに、派遣されてきたユダとシラスは預言の力も持っていて、力強いメッセージで信徒を励ますことが出来ました。特に迫害を受けていた人びとには、神の希望が語られたことは大きな励ましだったことでしょう。ですから、ユダとシラスはエルサレム会議の決定に関する証人として働いただけではなく、伝道推進のための力添えをすることが出来たのです。彼らは任務が終わるとエルサレムに戻っていきました。エルサレムの教会も彼らの働きを必要としていたのです。しかし、パウロとバルナバの任務はアンティオキア教会の牧会でした。それも、彼らだけが福音伝道したのではなく、多くの人々と共にイエス・キリストの福音を伝えたのです。
36節以下には意見の違いが述べられています。教会の分裂ではありません。「教会もまた生き生きとしていれば、しているほど、大きな問題をかかえこむのです。その時どう処理するかが問題です。処理の仕方がキリスト中心でなければなりません。」[7] パウロの意見は今まで伝道した教会に行ってアフターケアをすることでした。福音は伝えっぱなしではいけないのです。福音の種がまかれ、その芽がどのように育っているかを確認する必要があります。ただ、パウロにとってそのような町を再訪することは、命がけのことでした。パウロ自身、何度も死の危険にさらされたからです。その時に、バルナバは、マルコと呼ばれているヨハネも同伴させたいと提案しました。マルコはバルナバのいとこでした(コロサイ4:10)。しかし、パウロは反対しました。マルコと呼ばれているヨハネは若くても教会で重要な地位を占めていたようです。ペトロが牢獄からの奇跡の生還を経験したときに、戻ってきた場所は、マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家でした(使徒言行録12:12)。そこは、エルサレムの信徒たちの集会所のようになっていました。ただ、マルコと呼ばれているヨハネは、キプロス宣教の後、パンフリアのベルゲ港に到着すると勝手にエルサレムに帰ってしまったのです(使徒言行録13:13)。そのことをパウロは問題視しました。バルナバから見れば、ヨハネはキプロス宣教も経験しているし、良い助け手になると思えたのでしょう。若い人の失敗などは問題ではなかったのです。バルナバの優しさが感じられる場面です。「ふつうの考えからすれば、このバルナバの方が、人気を博すのではないでしょうか。」[8] パウロは違う意見でした。ヨハネは宣教そのものを無視したことが問題なのです。人間的な好みや優しさの問題ではなく、聖霊に導かれた宣教に対する態度をパウロは問題にしたかったのでしょう。パウロは、地方総督が入信したキプロスのような友好的な場所ではない地域に、ヨハネのような信仰の確定していない人物を連れて行くことを承認できなかったのでしょう。パウロは、「使徒職の遂行のため、主の御旨と示されたことは、どんなことでも躊躇なく応ずるような伴侶を必要としていた。」[9] そこで、39節にあるように、激しく意見が対立しました。二人とも妥協しなかったのです。そのときに、どちらの立場が正しかったかはわかりません。時間の流れが証明するのみです。ルカは議論があったとだけ記して、立場の是非は述べていません。それは、人間が決める事ではなく、聖霊の決断であるのです。それを、ルカは暗黙のうちに語っていると思います。議論の後に彼らがとった行動は、意見を統一することではなく、お互いの意見を尊重して、この際は別行動をとることでした。これも一つの解決方法でしょう。後に、パウロはマルコとの連絡をとっています(第二テモテ4:11)。無理に一緒の行動をするのではなく、多様性の中に神の御心を求めるのです。
興味深いことに、バルナバはマルコと呼ばれているヨハネを連れて、比較的安全なキプロス島に行きました。そこはバルナバの故郷でもありました。40節にあるように、パウロは、一旦はエルサレムに帰ったシラスを連れて小アジアの教会に向かいました。その際に、記者であるルカは、彼らが「兄弟たちから主の恵みにゆだねられて」と書いています。バルナバやマルコの出発には見られなかった表現です。つまり、このことは、バルナバやマルコが自分の意志でキプロス島に向かったのに対して、パウロとシラスはアンティオキア教会の公認のもとに伝道地のケアに向かったという事がわかります。教会では、個人の行動が目立つ場合がありますが、それが聖霊の働き、すなわち教会の共同の祈りのもとに祝福されないならば、単なる分派や個人の私利私欲にすぎないものになってしまう危険性があります。話し合いだけでなく、聖霊の働きを求めることが大切でしょう。パウロのように、人を拒否することも時には聖霊の働きとして聖書は説いていると思います。ルカは、一旦去ってしまった者と再び伝道しようとしなかったパウロを理解しています。「ルカには誤解があって、本当の議論の原因は、ペトロがアンティオキアに来た際に、その例に倣ってバルナバも律法主義者をおそれて異邦人を避けたからである。」[10](ガラテヤ2:11以下参照)それは、単なる人間的な優しさではなく、人類の救いの完成のための道程と言えます。パウロもこの点だけは妥協することがありませんでした。
41節に、その後のパウロたちの活動が述べられています。シリア州やキリキア州ですから陸路をたどったのです。彼らの働きは、一人一人の信者を励まし、イエス・キリストの福音を忘れないようにさせることです。現代の教会宣教でも、わたしたちがこの伝道の原点である福音を知り、福音に生き、信者を励まし、福音を伝えることが大切でしょう。
[1] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、148頁
[2] シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、201頁
[3] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、219頁
[4] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、28頁
[5] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、202頁
[6] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、149頁
[7] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、221頁
[8] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、223頁
[9] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、205頁
[10] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、318頁