受難週を迎えて救いの根本原理を学ぶ説教
「救いの実現」 マタイ21:1-11
今日は枝の主日ですが、「棕櫚の主日」ともいわれます。人々が棕櫚の葉のようなものをロバに乗ってイエス様がエルサレムに入城する時に道に敷いたからです。英語では、パーム・サンデー、「ヤシの葉の日曜日」と言います。この出来事は、ゼカリヤ書の預言どおりだったということを聖書記者は言いたかったわけです。
聖書の世界では、「偶然」という概念がありません。預言書にも見られるように、すべての出来事の背景には、創造主の絶対愛とご計画があることが示されているわけです。端的に言えば、そのことを確信することが救いだとも言えるでしょう。その点では、預言の成就を信じていたイエス様は既に救われていた人でした。さらに、敢えて言えば、救われた人とは既に神の子とされた人なのです。
さて、ゼカリヤという言葉はヘブライ語で「ヤハウェは記憶した」、という意味です。面白いですね。神は覚えていてくださる。神はごく小さなものですら忘れない。そうゆうことです。このゼカリヤは、神殿に仕えた祭司階級の預言者であったようです。その考えの特徴は、神の絶対超越性であり、人間のレベルでは判断できないということでした。また、聖地エルサレムの浄化でした。彼が活動した時代は、バビロン捕囚の後で、紀元前500年ごろでした。今から2500年も前の事です。ゼカリヤは、神の超越性を、超能力ということにではなく、柔和なロバに乗る指導者に見たのです。そして、500年後にそれがイエス様によって実現したのだと聖書は告げています。
救いということは、個人の努力とか、道徳的な立派さで実現するのもではありません。これは日本の多くの宗教が誤解している点です。そうではなく、謙虚な姿でロバに乗る救い主、全ての戦いの道具を廃止する救い主によって実現するわけです。戦いというのも、実は、自分を自分の力で救おうとしている、一種の自己中心性だからですね。ロバはユダヤ人社会では無力な動物と考えられていましたが、ここでは、救い主をお運びするという神聖な目的の為に用いられます。ですから、ゼカリヤ書が伝えたいことは、この新しい王であるイエス様は「神に従う」王で、自己中心性のない「高ぶらない」王だったということです。
フィリピ信徒の手紙(2:8)でも同じ内容がみられます。キリスト、つまり王である救い主は、自分を無にし、死に至るまで僕の姿をとったというのです。王様の自己否定ともいえます。この「自己否定」は救いの謎を解くキーワードです。その意味することは実に深く、天地創造の神ご自身が、自己否定し、罪ある人間によって罰せられたというのが受難の意味です。
これは、北森嘉蔵という神学者の「神の痛みの神学」を読むと理解できます。
イエス様が十字架に磔にされたので可哀そうという感情論を聖書は語りません。そうではなく、イエス様において神ご自身が、人間という傲慢な存在の侮蔑を耐え、憎しみを忍耐し、屈辱の死をも受け止めたという事が伝えられているのです。ゼカリヤによれば、これが神の超越性なのです。そして、これが、この世の浄化なのです。それはとりもなおさず、神は愛なりという事に決着するのです。何故なら、愛に値しない者のために命を捨てることが真実の愛だからです。世の中の人がすべて嫌悪した極悪死刑囚の葬儀を丁寧に行った本田哲郎神父などは、この神の愛を体現したのだと思います。
さて、イエス様がロバに乗ってオリブ山からエルサレムに下って行った時、人々は「ダビデの子よ救って下さい(ヘブライ語でホサナ)」と叫んだのです。救いというのは、目の前の問題解決以上の根本的解決を示します。
春には畑に雑草がでてきますが、わたしは草取りをする時に思います。目の前に茂った雑草を鎌で刈れば当面の問題は解決です。しかし、根本が解決していないわけです。根が残っているからです。必要なのは、鎌ではなく鍬です。鍬で雑草を根から抜かなくては解決しないのです。この世の問題も同じでしょう。薬を飲んだり、カウンセリングを受けたり、人の助けを借りれば、問題は一時的に解決したかに見えます。しかし、本当は解決していないのです。根本の解決が必要です。新しく生まれ変わること、つまり新生が解決なのです。古い根からでた茎には良い実はなりません。
例えば、失敗を繰り返したペトロも後にはこう書いています。「神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ、天にある財産を受け継ぐ者としてくださった。」(第一ペトロ1:3以下)ある神学者はこう書いています。「イエス様は救いにこられた、しかしその救いはわたしたちが想像していたようなものではなかった。」ですから、神の救いの超越性とはロバの救いのことなのです。救いの愚かさとでもいえるでしょう。聖書はエルサレムの人々が、主イエスを自分たちの王としてお迎えすることに結果的には失敗した物語としても描いています。この失敗を赦し、救いに変えてくださったのが神の愛です。
私たちもこの点をしっかり把握し、聖書が実際に伝えようとしている主張に聞くものとなりたいものです。現在のウクライナ戦争だけではなく、世界には攻撃と競争が常在します。常に悪の化身のような人物が現れるのです。しかし、それとは逆に、マタイによる福音書は「柔和」そして「荷を負う」という言葉を強調します。ここでは、攻撃的、あるいは怒りという言葉の反意語である「柔和」が用いられているのです。その柔和さの究極的シンボルがロバです。人々が「その子ロバをほどいてどうするのか」と聞いてきたとあります。二人はイエス様から教えられた通り「主がお入り用なのです。」と答え、彼らは許可してくれたと伝えられています。私達は今日の聖書において、確かに神様の救いのご計画が神様の御手の中で着々と進められていくのを見ることが出来ます。「主がお入用なのです。」これは今一人一人に語りかけられている言葉でもあります。私たちも平和の主を乗せる小さいロバだからです。私たちがロバの子として選ばれ、自分は無価値なのに、神様に用いられる人生を歩むことが可能だとも教えていると思います。このことを知り、神様の使命に生きる人生こそ、最高の人生です。
地上の教会もキリストのロバです。救いの計画を知り、救いの手となり足となること、つまり教会のメンバー(英語では四肢の意味がある)というときにもはや救いが完成しているといえます。印西インターネット教会は、物理的な建造物や集会を持ちませんが、この教会につながってくださる方は、すべての人が、神の手足です。救われているのです。それを信じるのです。弱さがあるからこそ、神の器として認定されているのです。だからこそ、わたしたちですら救いを運ぶ神聖な働きをする事が出来るのです。
前述したように、神の神聖さ、神の超越性は神の低さにあります。子ロバに乗ったイエス様は、悲しむ者、自分を卑下する者、あるいは周りの人を非難する者をあえて責めません。むしろ、「わたしがあなたの苦しみを負い、あなたの悲しみを覚えているから安心しなさい」と優しく呼びかけてくださるのです。子ロバに乗ったイエス様は、病に苦しむ者、希望を失った者に、「それはあなたの責任だ、あなたが悪かったからだ」と責めません。むしろ、「あなたの罪過と苦しみ悲しみはわたしが覚え、わたしの苦しみわたしの悲しみとなった、だから、わたしの信仰によってあなたは癒される」とおっしゃってくださる。結局。わたしたちは自分の信仰によって救われるのではなく、救い主の信仰によって救われるのです。これが、神学的秘儀であろうと思います。
その実現の時は既にきています。イザヤ書の53:11にも書いてあります。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」受難週である今週、十字架の尊い犠牲を覚える訳ですが、それはすべての不幸の根源でもある「原罪」という根が抜き取られ、わたしたちが神の前に正しい者とされる事象でもあるのです。救いは既に2千年前に、イエス様の十字架と復活によって実現し、わたしたちの目が聖霊によって開かれれば、どんな薬もどんな医者にも不可能な、罪からの救いがすぐ目の前にあるのがわかるのです。